既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第7章 家畜衛生

第5節 乳肉衛生

1.屠畜衛生の変遷

 明治維新前後から,肉食の習慣が次第に広まり,食肉の需要が増すとともに,屠畜場もまたその数を増していった。屠畜場および食肉獣畜の取締りは,明治4年(1871)8月,大蔵省布達第38号「屠牛取締方ヲ定ム」および明治6年(1873)3月,太政官布告第76号「斃禽獣取締」によって行なわれていたが,その施策は各府県まちまちで,決して十分なものとはいえなかった。その後さらに食肉の需要が増すにつれて,間に合わせ的な屠畜場が乱立し,食肉衛生上憂慮すべき状態となったので,明治39年(1906)4月11日,法律第32号をもって「屠場法」が制定され,これによって全国統一的な取締りが行なわれるようになった。

(1)明治年代から昭和前期までの屠畜衛生

  1 屠畜の取締り

 岡山県の屠畜衛生取締りは,小田県(明治8年12月,岡山県に合併)が,明治6年(1873)3月に,牛肉販売の取締りについて布達を出したことにはじまる。小田県は,さらにその年の12月に「屠牛取締規則」を制定して,斃牛肉の販売を禁ずるとともに,小田郡吉田村(現笠岡市),同郡小田村,同郡浅海村(以上現矢掛町),後月郡神代村(現井原市)の屠畜場以外の場所において獣畜を屠殺することを禁止している。明治9年(1876)8月17日には,岡山県布達甲第98号で,斃牛肉を販売する者処分方の布達が出され,翌18日には,岡山県布達乙第136号で「屠牛並販肉取締規則」が制定されて,屠牛営業者,牛肉販売営業者は免許鑑札を要することとなった。
 明治10年(1877)10月,「近頃牛肉商ノ者,斃牛ノ肉ヲ取交ゼ販売致ス者,間々有之哉ニ相聞ヘ,以テ外ノ事ニ候条,厳密可遂吟味候ヘドモ,方今,虎列刺病流行ノ際ニ候ヘバ,人々篤ト取調,出所判然セザル肉ヲ買求メザル様相心得,此旨布達候事」という布達(岡山県布達甲第101号)が出されているが,斃牛肉を売る不心得者がいたことや,当時コレラが流行していたことが分かる。事実明治9年(1876)には「疫病虎狼刺予防心得」なる布達(岡山県布達甲第101号)が出されている。
 明治13年(1880)12月3日には,さきに制定されていた屠牛並販肉取締規則が廃止され,岡山県布達甲第169号で,新たに「屠牛並販肉規則」(翌14年に一部改正)および「斃牛馬取扱規則」が制定された。屠牛並販肉規則には,あらまし,次のようなことが定めてあった。すなわち@屠牛営業者,牛肉販売営業者は鑑札を受けること。A屠牛場(屠畜場)が設置できる村を,備前国では御野郡南方村(現岡山市)および邑久郡福山村(現邑久町),備中国では上房郡高梁(現高梁市)および小田郡吉田村(現笠岡市),美作国では久米南條郡横山村(現津山市)および大庭郡中島村(現真庭郡久世町)に特定したこと。B屠牛場の面積,内壁,窓,床等屠牛場の構造基準を設け,屠牛場以外での屠殺を禁止したこと。C屠殺日時を,前もって所轄警察署に届け出ること。D屠殺牛は,検査人の検査を受け,肉片に検印を押してもらうこと。E屠牛場は清潔に保ち,皮,骨,肉片,血塊等を堆積しておかないこと。ということであって,まことにおおまかではあるが,屠畜衛生の基本的なことがらが盛り込まれており,当時としては,食肉衛生を十分に考慮したものであったということができる。この規則はその後たびたび改正されたが,屠畜衛生の取締りは,屠場法が公布されるまでこの規則によって行なわれていた。
 斃牛馬取扱規則には,死牛馬の取扱営業をする者は,相応の資産を有し,かつ,品行方正なる者であること,さらに,屠牛や牛肉の販売をしてはならないとされており,死牛馬肉が食用として流通することを防止している。
屠牛並販売規則にもとづいて,検査人が屠殺牛の検査を行なっていたが,これは今日の屠畜検査に当たる。しかし,当時はもちろん,屠場法公布後もしばらくは,検査の方法,検査の結果にもとづく屠肉の措置等について,具体的な基準がなかったので,全国的に統一された検査は行なわれていなかった。その後,大正2年(1913)5月に,内務省令第13号で,「屠畜検査心得」が制定されたので,それ以後全国的に統一された検査が行なわれるようになった。岡山県においても,同年6月,訓令第277号で,「屠畜検査員執務心得」が制定されている。
 明治年代から昭和20年(1945)までの家畜別屠殺頭数は,表7−5−1のとおりで,また明治34年(1901)の屠畜検査手数料は,「屠畜及飲食物其ノ他ノ物品ニ関スル検査手数料規則」(明治34年岡山県令第4号)により,牛,馬が1円20銭,子牛,羊,豚が60銭であった。
 なお,明治39年(1906)の屠畜検査員の待遇は,表7−5−2のとおりであった。(明治39年における岡山県の米価は石当たり14円29銭であった。)

  2 屠畜場数

 明治から大正にかけての屠畜場数は,明治18年(1885)には,上道郡網浜村屠場(現岡山市)ほか,14カ所であった。これが明治30年(1897)には37カ所と大幅に増えている。しかし,屠場法が公布された明治39年(1906)には21カ所に減り,大正10年(1921)になるとさらに減って,9カ所になっている。
 屠場法公布以後,屠畜場が減ったのは全国的な傾向で,これは屠場法に「市町村が屠畜場を設立するときは,地方長官は,必要と認める地域内における私設屠畜場の廃止を命ずることができる。」等の徹底した公営屠畜場優先の規定があり,公営屠畜場の維持育成がはかられたことによるものと考えられる。全国における屠畜場数をみても,明治37年(1904)には,1,346カ所であったものが,明治43年(1910)には483カ所に減っている。

  3 屠畜場外における食肉の取締り

 屠畜場外における市販食肉の取締りについては,明治初期から屠場法公布までは,諸布達や,屠牛並販肉規則,斃牛馬取扱規則,「屠獣肉缶詰製造営業取締規則」(明治33年,岡山県令第60号)等によって行なわれていた。大正年間になると,食肉が外国から輸移入されるようになったので,昭和2年(1927)1月20日に,内務省令第4号で「食肉輸移入取締規則」が制定され,輸移入される食肉の規則が強化された。