ホーム岡山畜産便り > 岡山畜産便り2002年4月号 > 明治時代における食肉事情

〔特別寄稿〕

明治時代における食肉事情

岡山市 浅羽 昌次

 わが国の上古時代は,牛馬は勿論,犬,狸,猿,熊,鹿,山兎,山鳥,雉などあらゆる獣や野鳥が食用に供されていたが,仏教の伝来とともに殺生禁断,肉食は汚れたものとして忌み嫌われ,一切口にする者は居らなかったという。天武天皇(676年)4年4月には「莫食牛馬犬猿鳥」(牛馬犬猿鳥ハ食スナカレ)と云ったお触れを出し,一切肉食を厳禁している。
 こうした風習は幕末末期まで続いていたようであるが,しかしこれにも例外はあった。所謂,徳川幕府の「お目こぼし政策」によって,彦根藩と津山藩は「養生食い」と称して肉食が黙認されていたようで,ここの領主井伊家からは毎年将軍家に対して,「牛肉の塩漬」などが献上されていたと伝えられている(松平家は不明)(岡山風土記)。
 ところが文明開化の明治時代を迎え,外国人が肉食をしているのをみて,日本人も肉食をしなければ野蛮国と思われるといったことから,肉食の奨励が始まった。明治4年4月の発行の新聞雑誌第1号にも「日本人ハ性質総て智巧ナレ共根気乏し。是肉食セザルニ因レリ。然レ共,老成ノ者,今俄カニ肉食シタレバトテ急ニ其ノ験シアルニモ非ス。小児ノ内ヨリ牛乳等ヲ以テ養ヒ立ナバ,自然根気ヲ増シ身体モ従ッテ強健ナルベシ」と,牛乳や肉食奨励の記事が掲載されている。明治5年1月24日には,明治天皇は大膳職に命じられて,初めて牛肉を試食され,これが新聞に大きく報道された。

 「我ガ朝ニテハ,中古以来肉食ヲ禁ジラレシニ,恐レ多クモ天皇謂レナキ儀ニ思召シ,自今肉食ヲ遊バサル旨宮中ニテ御定コレアリタリ」

これに刺激されて肉食全国的に普及していった。ところがこの報道に反発した木曾御岳講の連中10名は,明治天皇に肉食中止の直訴を企て,日本刀などを持って宮城内に乱入したが,警備兵に撃たれ射殺4名,重傷1名,残る5名は逮捕されるといった悲惨な事件もあった。同年4月には,太政官布達により「自今僧侶肉食妻帯蓄髪勝手」と,僧侶の肉食,妻帯が許され,また6月には尼僧も肉食,縁組,帰俗が許され,殺生禁断,肉食反対の急先鋒だった仏教徒も時代の流れに逆らえなかったのである。
 また敦賀県令の村上氏寿は,県民の牛肉店開業に反対するものが多いことを聞き,早速次のような論告を出し県民を戒めている。

 「牛肉ノ儀ハ,人生ノ元気ヲ裨補シ,血力ヲ強壮ニスルノ滋養物ニ候処,兎角旧情ヲ固守シ,自己ノ嗜マザルノミナラズ汚穢ニ属シ,相喫候ハバ神前等可憚杯無謂儀ヲ申蝕シ,却テ開花ノ妨碍ヲ為スノ輩,不尠ノ趣,右ハ固陋因習ノ弊而己ナラズ,方今御主意ニ戻リ以ノ外ノ事ニ候。以来右様心得違イ輩於有之ハ其町役人ノ可越(落)度候条……云々」(明治事物起源)

と,最後には「心得違イノ者ガ居レバ其ノ町役人ノ落チ度デアル」と厳しく申し渡しているのは面白い。
 さて,岡山ではどうであろうか・・・・津山地区はともかくとして,岡山区内で牛肉が一般の人々に食べられだしたのは明治5年頃ではないかと云われており,最初は「シッペイ」と称する小さな土鍋に牛肉,ねぎ,牛蒡,豆腐などを入れ,七輪に掛けて煮て食べたらしく,一人前が2銭5厘―3銭,酒1本が1銭―2銭5厘であったと言われている。昔の酒は現在のものよりアルコール度が弱く,トックリも2合入りであった。
 当時は中島には遊郭が,また京橋下には船の発着場があり,この界隈は人手が多く,この客を目当てに「シッペイ屋」が軒を連ねていたという。シッペイ時代から本格的な座敷での「すき焼店」に移行したのは明治9年頃といわれ,小橋に開化楼が開店,これと相前後して山崎町に鹿林,可真町に肉久などが開店した。どの店が最初であったかは異説があり,今となっては明確にすることは困難である。
 当時,牛肉の供給を行う屠場は,人目につかない林の中や草原で行われていたが,明治9年8月,太政官布達により次のように示された。

 「近来肉食相開ケ候ニツイテハ屠牛渡世ノ者,屠場ノ儀ハ人家懸隔ノ地ニ取設ケ,病死死牛トモ不売捌様厳重取締可中就テハ左ノ二条相守各地方長官ニ於テ雛形ノ鑑札製造致シ屠場取開ノ場所巨細取調ノ上相渡シ当省ヘ追テ可届出事
  1.牝牛ハ繁息ノ基本ニ付総テ屠殺不致様取締可致事
     但12,3才以上孕牛ニ難相成分不苦候事
  1.諸開港ニ於テハ……云々(以下省略)

 屠場は人家懸隔の地であればよい時代から,次第に肉食が盛んになるにつれて,衛生面を重視して取締りが厳しくなった。岡山県は明治9年8月,「屠牛並販肉取締規則」を制定し,屠場経営者及び牛肉販売人を鑑札制度とし,屠牛場も次の6ヵ所と定めた。

  ・備前国御野郡南方(岡山市南方) ・備中国小田郡吉田村(笠岡市吉田)
  ・備前国邑久郡福山村(邑久町)  ・美作国久米南条郡横山村(津山市横山)
  ・備中国上房郡高梁(高梁市)   ・美作国大庭郡中島村(久世町中島)

 一般に肉食が普及するにつれ屠殺頭数も増加し,従って屠場も次々に増設され,明治15年頃には10ヵ所に増えていた。県は明治10年に屠場経営者に対して次のよう屠殺頭数の報告を求めた通達を出している。

 「屠牛営業ノ者,1ヵ年屠牛頭数ノ員数,当明治10年ヨリ毎年1月31日(前年7月ヨリ12月迄),7月31日(該年1月ヨリ6月迄)限リ両度ニ牝牡ノ区別及平均代価其詳細取調可為届出……云々」

とあるが,岡山県統計に屠殺頭数が計上されたのは明治13年分からで,牝634頭,牡770頭と記されている。この頃はまだ斃死牛の肉も健康牛の肉と混同して販売する業者が多く,県は度々この取締りの通達を出している。

 「近頃牛肉商ノ者,斃死牛ノ肉ヲ取交販売致候者,間々有之哉ニ相聞ヘ以ノ外ノ事ニ候条,厳密可遂吟味候ヘトモ,方今虎列刺病流行ノ際ニ候ヘハ,人々篤ト取調出所判明セサル肉ヲ買求メサル様可相心得此旨相達候事」(M10.10.20)

とある。田舎では,古来放牧中,墜落死(やまおち)などの場合,牛の所有者の部落内に斃死牛の肉を配り,何がしかの見舞金を集める古い習慣があった。近くは昭和39年1月,新見市でこうした古い悪習を断ちきる意味で,新見保健所は市内農家某を屠場法違反容疑で新見警察署へ告発し,物議をかもした例がある。
 話が前後するが,明治14年の頃になると新聞に屠場の営業広告や,牛肉店,すき焼店などの広告が見られ,新しい宣伝方法だと皆を驚かしたという。

屠場営業広告

 「本県甲第169号御達ニ基ヅキ邑久郡福山村ニ於テ屠牛営業ノ許可を蒙リ目下新築致シ居リ候ニ付右構造落成次第開業致ス可ク候条牛肉販売ノ諸君弊ヘニ御来車被下ハバ御成規ニ従ヒ売買取結ビ可申候ニ付此段広告仕候」

備前国邑久郡福山村 愛養社

 また肉屋,すき焼店の広告には次のようなものが見せられた。

稟   告

上等  10銭
定価百匁ニ付 中等  8銭
下等  6銭

近来牛ノ代価ノ騰貴スルニ従ヒ良肉ヲ捌ク者尠シ,甚シキハ必死ノ病牛ヲ屠シ,或ハ死牛ノ肉ヲ販売スルモノアリ。衛生上其ノ害ヲナス,蓋シ少々ニアラズ。依テ今般弊社ニ於テ肥満ノ健牛ヲ選ビ西洋屠殺法ニ倣ヒ殊別ノ精肉ヲ供給シ,本県病院ノ御用ヲモ蒙リタルニ付,本月1日ヨリ広ク之ヲ江湖ニ発売セント欲ス。諸君ハ多少ニ限ラズ御購求ノ上,此ノ広告ノ妄ナラザルコトヲ知リ玉ハンコトヲ乞フ。

岡山区弓ノ町64番地      
病院御用牛肉販売所 栄養社

今度東京山下(上野公園)ノ「雁鍋」ニ倣ヒ,山海ノ魚鳥ニ時季ノ珍青ヲアシライ,「スキ焼」ヲ本トシテ諸君ノ御愛顧ヲ蒙ラント欲ス。伏シテ御来臨アラン事ヲ。
       上等 1枚代価            15銭
       中郷                 10銭
       下等                 7銭5厘
       酒 1本               3銭5厘
       鴨雑煮並飯
       其他 御希望次第
    岡山区丸亀町東北角 一等料理店「一力」 来る10月1日開業

 山陽新報によれば,明治17年頃の岡山区内における牛肉の小売価格は100匁(375g)当り上等肉2銭5厘,中等肉2銭,三等肉(下等肉)1銭5厘であったが,同年7月1日,小売業者は連昌寺に集まり,牛肉小売価格の値上げを協議した結果,100匁当り上等肉3銭5厘,中等肉2銭5厘,三等肉(下等肉)1銭5厘となり,20年には再度値上げされ,上等肉5銭5厘,中等肉4銭5厘,三等肉3銭5厘と,大巾に値上げされた。これには牛肉愛好家たちは大慌て,遂には山陽新報社などの主唱で「牛肉不買運動」が展開された。

 「岡山区内デ屠殺サレル牛ノ頭数ハ毎日3頭デアッタガ,コノ運動ノタメ屠殺頭数ガ毎日1頭に減ッタ」

と新聞は報じている。なにしろ当時白米1升が3銭5厘であった時代である。主食の白米1升と三等肉100匁の価格が匹敵するのではたまらない。市民の食生活は自然と価格の安い鮮魚類に走ったのも無理からんことと推測される。また12月14日の中国民報は,肉類の価格について次のように伝えている。「岡山市街ニテ各所ヨリ買イ込ム鶏肉ノ相場ハ,英国種デ100匁当リ3銭ヨリ8銭迄,家鴨(あひる)肉ハ100匁当リ8銭ナリ。市中ノ需要先ヘノ小売価格ハ8銭ヨリ12銭ナルガ,1日ノ売レ高25貫内外ニシテ,コノ金額ハ100円トナル。マタ岡山市内デ売リ捌く猪ノ肉ハ,目下100匁当リ14銭5厘ナリ」と,当時の様子をよく物語っているものと思える。
 肉食も盛んになるにしたがい屠殺頭数も急激に増加,これがため農商務省は明治21年1月,牛種損耗について次のような注意を喚起する通達をだす始末であった。

 「近来,肉食益々開ケ為ニ牛畜ノ屠場ニ上ルモノ年々10万余頭ヲ以テ算フルニ至レリ。而シテ繁殖力ハ啻ニ屠殺スル所ノ頭数ヲ捕フルニ足ラサルノミナラス,年1年減少ヲ致セリ。蓋シ本邦ノ牛畜ハ専業トナシテ之ヲ繁殖スル者甚少ナク各農家ニ於テハ大抵使役ヲ目的トシテ繁殖シタル後屠殺スルヲ常トス。……(途中省略)……屠殺ト繁殖ト其ノ数相応セサル時ハ,少壮ノモノト雖モ勢亦之ヲ屠殺セサルヲ得ス。農家タル者其ノ大ニ憂フヘキヲ知ラサルニ非ス。然レ共連年疲弊ノ(?)ヲ承ケテ,目前ノ糊口齷齪タル今日ナルカ故,之ヲ顧ルニ遑アラサルヨリシテ為ニ此ニ至レルモノナルヘシト雖モ宜シク注意ヲ将来ニ要スヘキモノナリ」(明治21. 1.10 官報掲載)

 明治21年頃には県内の肉食も一段と進み,広く一般の家庭でも食卓に上がるようになり,屠場も備前国9ヵ所,備中国2ヵ所,美作国8ヵ所,計19ヵ所に増え,21年の屠殺頭数は1,906頭を数え,この年に初めて馬297頭が屠殺されたと岡山県統計に計上されている。
 明治32年度に入ると岡山県は屠畜検査医の名称のもとに獣医3名(藤巻良平ほか2名)を採用,次いで翌33年度には岡山県高松農学校第1回獣医科卒業生7名(大畠三枝松ほか6名)を新規採用し,早速5月5,6の2日間,県庁で屠畜検査医打合会が開催し,こと細かに屠畜検査の方法なり,注意事項が伝達されたとの新聞記事がある。こうして長い年月と紆余曲折を経て,漸く食肉行政の体制は整備され,大正,昭和の時代へと推移していったのである。