既刊の紹介岡山県畜産史

第1編 総論

第1章 旧藩時代までの畜産の概要

第1節 家畜飼養

1 官牧

 律令制度による官牧の全国的設置は,文武天皇4年(700)に始まった。延喜兵部省式によれば,牛牧設置は,次の11カ国15牧となっている。すなわち,東海道4カ国4牧,山陽道3カ国3牧,南海道1国1牧,西海道3カ国7牧となっていて,この中に備前国長島馬牛牧があった。これは,もと同国児島の小豆島(あずきじま)に,6世紀半ばころからあったものが,官牛が島民の産業を損じるという理由で長島に移されたものである。官牧の多くは,このような理由により,8世紀の中期ごろから衰退のきざしがみられ,代わってこのころから富裕な農民や地方の豪族が牛馬を所有するようになった。

2 飼養家畜の種類

 近世以前,耕地の1筆の面積の大きかった時代には,牛に対する馬の割合が比較的大きかった。
 江戸時代初期において,備前地方では盛んに牛馬が飼われ,しかも,その7−8割が牛で,馬は引き続き減少している。そのため,岡山藩では交通,軍事に支障を来すほどであった。
 作州地方では,交通不便な時代,駄載利用のため,雌牛より雄牛が多く飼われていた。この傾向は,明治中期まで続いた。

3 主産地の移動

 備前児島郡味野(あじの)村(現倉敷市児島)および瀬戸内沿岸しょ部は,宝永(1704−10)のころまで,多頭飼育による牛の生産育成地であった。ところが,このころを境として,備前では牛飼い場が次第に減少し,牛馬を飼養する農家の割合が,美作(みまさか)と同じく約50%となり,その後時代の推移とともに低減して,19世紀中期になると,生産地は県北の中国山地へ移動した。

4 飼養方式

 中世以前に広く行われた放牧は,近世になるとかなり後退して,舎飼いに移った地方が多くなっている。放牧には,山野放牧と秋から春にかけての耕地刈跡放牧とがあったが,西日本では二毛作の進展により,後者は後退した。
 近世に至って,中国山地では,山林放牧が甚だ盛んであった。これは,製鉄用薪炭林の伐採跡地の放牧利用という形で進展し,また,多頭飼育に伴って起こる省力管理の要請により推進されたものである。放牧の見回りは,男の担当する仕事であったが,舎飼いにおける牛の飼育管理は,婦女子の担当であった。
 飼料は,放牧期を除いて,稲藁,麦桿,畦畔草,その他農場副産物で,近世に至り,農場副産物など耕地への依存度が大きくなった。
 牛舎は,内厩式が主であった。

5 牛馬の所有形態

 古代において,牛馬はおもに国家や貴族の所有に属していた。富裕な農民や地方の豪族が牛馬を所有するようになったのは,8世紀の中期ごろからである。
 17世紀中期,備前国においては,農民が自弁で購入した牛馬(「自分牛」,「自分馬」)が,80%を超え,「預牛」,「預馬」が14%,「貸し銀」,「遣(つかわ)し銀(ぎん)」などによって藩から便宜を供与されたものが4%となっていた。

6 牛小作

 近世における牛の所有は,本百姓上層に屬する地主的豪族や商人などによる大所有と,中下層農民の小所有ないし無所有とに分化していた。牛の大所有者は,その持ち牛を,名子および小作人に「厩先(まやさき)」として貸しつけ,商人の場合は,売買関係から持ち牛を一定期間貸しつける場合が多かった。
 江戸時代後期になると,中国山地の鉄山師が,鉄の運搬用として,また,商品経済の発達に伴う商品として牛を多く所有し,これを牛小作に出した。備中国阿賀郡井原村(現新見市)の庄屋安藤家では,文政,天保のころ(1818−43)約1,000頭の牛を所有し,近在を初め美作,伯耆,遠くは讃岐にまで厩先をもっていた。