既刊の紹介岡山県畜産史

第1編 総論

第1章 旧藩時代までの畜産の概要

第3節 家畜およ畜産物の利用

 牛馬の飼養目的について,馬は戦争と支配者のものであり,牛は平和な農民のものである,と一般に認識されているけれども,牛も,初めは農耕用としてよりも,むしろ駄用として戦時における物資輸送に備えるためのものであった。平安中期以降になると,牛の所有主体は,地方豪族に移り,長床犁による牛耕が行われるようになって,牛は平和な農民のためのものとなったのである。

1 役利用

(1)中世までの役利用
 古代において,奈良朝時代の貴族の車は,主に馬が曵き,平安朝時代になると,牛車がきわめて盛んになった。天平年代(729−45)諸国から貢進されて左右馬寮に管理されていた牛は,駄用,農耕用,儀式用と,さまざまな用途に用いられた。耕耘の場合,牛馬1頭の耕耘可能面積は2町で,牛1頭に2人がかりで,1人が犁をとり,他の1人が牛を御していた。左右馬寮で舎飼いされた役牛の場合,毎年4月11日初めて青草を給与し,10月11日以降乾草を2束(1束は10斤2両)与えた。また,冬飼いには米8合を与え,夏には与えないことになっていた。
 古代において,一般の農民は,牛を飼う余裕のないのが実情であったが,天平年代(729−45)富裕な農民や地方の豪族が牛を所有するようになると,主として駄用に供し,寺院などでは田畑の耕作に供用したようである。こうして牛の売買が盛んになると,天平4年(732)東海,東山,山陰の諸国に対して,牛馬を他へ売ってはならないという禁制が出され,同6年(734)これらの諸国に対して,その禁を解いている。
 牛馬耕が普及したのは,平安朝中期以後,牛の所有形態が,官から地方の豪族や大農の手に移り,承和年間(834−47)長床犁による牛耕が行われるようになってからである。中世末期,西日本では牛による耕耘が,名主など上層経営を中心にかなり広範囲に行われていた。

(2)近世における役利用

  1 耕耘
 斉藤英策(1965)の『近世和牛経済史』により,近世における岡山県に関係した牛の役利用について見れば次のようである。
 近世初期,西日本ではかなり犁耕が普及し,一般には長床犁が用いられた。東日本では代掻き(しろかき)はかなり普及したが,犁耕は例外的であった。昔から原野の広い畑作地帯の東日本では馬,水田地帯の西日本では牛が普及していて,耕土の深い田圃では牛が静かにねばり強く働くので重宝され,浅田には馬が早くてよいとされていた。『通俗農芸文庫,農業経済編』によれば,役畜としての牛馬の利害を次のように比較している。

 ■馬の優点
 1 動作が軽快であるから,仕事が早いこと。
 2 性質が怜悧(れいり)であるから熟練しやすい。
 ■馬の牛に劣る点
 1 良好な飼料を必要とすること。
 2 病気にかかりやすいこと。
 3 性急であるから,農具を破損しやすいこと。
 4 年老いたときは,ただ皮と骨との価値しかなくなること。
 ■牛の馬に勝る点
 1 力が強いので,重荷を運ぶのに適していること。
 2 性質が忍耐強いので,長い仕事に耐えること。
 3 粗悪な飼料をもって満足すること。
 4 病気にかかることの少ないこと。
 5 老齢なったとき,肥育すれば,原価をつぐない,時にはかえって高価となること。
 ■牛の馬に劣る点
 1 仕事が遅いこと。
 2 仕事に馴れにくいこと。

 岡山市役所(昭和41年)の『岡山市史(産業経済編)』によれば慶安2年(1649)から延宝5年(1677)までの約30年間の備前国における牛馬頭数の推移を,表1−3−1のように示し,「慶安2年(1649)から寛文5年(1665)までの僅か16年間に,牛馬数が60%増加した。これは,従来の鍬中心の耕作から犁中心へと発展したことを物語るものである。そして,前期においては中後期に比較して馬の割合が多く,初め約30%を占めていたものが,その後漸減して20%強となっている。これは,当時1筆の田畑面積が,相対的に広かったなどの原因により,馬耕の割合が多かったため」としている。
 備前南部の干拓地帯では,豪農が成長していた。興除新田は,享保年代(1716−35)から開拓されていて,天保11年(1840)曽根(現岡山市曽根)では家数113戸,牛は僅か14頭であって,牛の飼養は上層農家の一部に限られ,その利用は進んでいなかった。
 中国地方の主要産牛地である津山近辺の近世末と思われる『作州遣牛之事』に,「津山附近の田邑(たのむら)のような粘土質のところで,引かきに牛を使うには,牝牛でなければむづかしく,砂地や軽い土質のところでは,牝牛が適している」とある。

(表1−3−1)

 備中の産牛の中心地である,阿哲郡では,天保のころ(1830−43)の庄屋覚書中の牛鍬(うしんが)を新調するための寸法書きに,「牛鍬の長さ2尺,厚み4寸5分」とあり,当時の長床犁の構造が伝えられている。同郡新郷村(現神郷町)の竹の谷蔓の創成者難波千代平は,自己の田地を長方形,方形に改め,田植えのとき優れた牛を5−6頭も並べて代掻きをさせた。そのため竹の谷の馬鍬の幅が小さかったといわれている。
 備前南部の干拓地である福浜新田(現岡山市)の手作り地主庄屋(享保年代(1716−35)から明治中期(1868−1911)まで)では,「常に6,70人に労働者を集め,牛10数頭を飼い」耕作をした。興除新田曽根(現岡山市)では,農民は耕牛を購入するため,牛銀を藩から借り受けた。広大な干拓地では,生産手段として耕牛が極めて重要であったのである。
 このように,近世末期山陽地方など二毛作田地帯で,長床犁による耕耘がよく普及していたが,その普及率の最も高かったのは,北九州の平野部で,ついで,中国四国の瀬戸内沿岸,近畿周辺部などとなっていて,中国山地では平坦部ほど盛んではなかった。また,近畿中心部や東日本では,牛による犁耕は極めて少なかったといわれている。
 役牛の性別については,鞍下牛は牡であり,備前および西牛として備後,安芸などへ仕向けられる牛は,牝牡いずれでもあった。

  2 運搬その他の利用

 近世後期の『農業余話』では,「牛は耕作の先達」,「馬は運送に用ふる」となっているが,近世以前から牛車あるいは駄載運搬用として,牛が使役されていないわけではなかった。
 近世初期,全国的規模で進められた各藩の築城工事には役夫とともに多数の牛が徴発された。天正11年(1583)大阪城の造営に当たって資材運搬のため,中国地方から多数の「登り牛」を徴用した。
 牛馬については,中世以前から貴族乗用の牛車が用いられた。
 備中阿哲地方を中心に,因幡,伯耆などからも,大津の牛車を初め,大和,河内,近江,紀伊北部地方の役牛に売られていく牛を「東牛(ひがしうじ)」と言った。車を曵かせるので「車牛」とも言った。これに対し,阿哲地方から西の備後,安芸,石見の津和野辺まで資力のある大百姓に役牛として売られる牛を「西牛(にしうじ)」といい,体型資質が,東牛とは全く違っていた。
 駄載運搬には馬が主として用いられたが,牛も圃場への堆厩肥の搬出,収穫稲等の運搬,薪炭や日用品など雑品の運搬に用いられ,阿哲地方では牛馬が併用されていた。とくに,牛飼養条件のよくない郡南部の台地では,牡の預り牛が多く使役された。道路の不備な当時,馬よりも牛が駄載運搬に多く用いられた。また近世初期急速に進展した中国山地の鉄山の開発に伴い,砂鉄運搬には,馬が主に用いられ,牛は補助的に用いられた。牛はおもに商品として取り扱われ,子牛を生産することにより,先進的畜産が強化されていた。  

2 厩肥の利用

 中世以前における耕地の地力維持増進は,刈敷依存によるところが大きく,とくに山間部や後進地にこの傾向が強かった。
 近世に至り,農耕の集約化につれて,厩肥の利用が進展した。 

3 乳利用

 奈良朝時代に肉食禁止令が布告され,仏教による殺生禁断の思想が普及するに及んで,四足獣の肉ばかりでなく,その分泌物である乳を飲むことも,一般に忌避されるようになった。この状態は,徳川時代まで約1000年続いた。しかし,この間,宮中においては牛乳及び乳製品を食用,薬用,供饌用に供し,典薬寮に乳牛を飼い,諸国から蘇を貢献させていた。また,将軍吉宗は,乳牛をオランダから輸入し,以後歴代将軍は,その乳から造った白牛酪を滋養食としていた。このように,一般人と異なり,宮廷内や徳川将軍家では,公然と牛乳および乳製品を食料としていた。

(1)中世までの乳利用

 1 乳長上
 孝徳天皇の時代(645−654),大山上和薬使主福常(呉国人善那の和名)が,わが国で初めて搾乳の術を習い,時の天皇に牛乳を奉り,乳長上の職を授けられ,以後その子孫はその職を継承した。これは,のちに在職年限を6年とし,天長2年(825)4月,乳師という名称に改められた。

 2 貢蘇

 文武天皇4年(707)10月,蘇を造らせ,養老6年(722)には,蘇を籠に入れて貢進すべしということが7道諸国士に命ぜられている。諸国の貢蘇番次は6番制,つまり6年に1回貢進する制度になっていたが,その6番に屬する13カ国の中に,美作国11壺(3口各大1升,8口各小1升),備前国10壺(2口各大1升,8口各小1升),備中国10壺(2口各大1升,8口各小1升)がある。(小升3升をもって大升1升とする)
 蘇は,牛乳1斗を煮つめて,蘇大1升が得られる固乳のことである。
 『民部式』によれば,「肥牛1日大1升8合,痩牛は半分に減ずる」とあることから,鋳方貞亮(昭和20年)の『日本古代家畜史』によれば,右のことから当時の乳牛頭数を算出して,美作国25頭(民間),備前国21頭(長島馬牛牧),備中国21頭(民間)であったとし,全国では1,491頭と計算している。

 3 古代畜牛の搾乳量と飼料給与法

 典薬寮の乳牛院(800年代)で飼育した乳牛から搾乳した量について,『典薬寮式』によれば,7頭の乳牛から毎日大升で3升1合5勺を搾乳した,とあるので,乳牛1頭当たり大升で4,5合搾乳したことになる。そして,「乳牛7頭の秣料は,米,大豆各日1斗4升,すなわち1頭当たり2升」とあって,乳牛院で飼われた搾乳用の牛の1日当たり給与量は,米2升,大豆2升であった。これは毎月宮内省に請求して受け取っている。また,乳牛7頭,犢7頭の年料として,山城国と丹波国から進ぜられた乾蒭が当てられていた。『厩牧寮(くもくりょう)』には,「その乳牛には豆2升,稲2把を給へ。乳を取る日給へ。」とあって,搾乳期間中1日1頭当たり豆2升,稲2把が与えられる規定になっていた。
 余談にわたるが,乳牛は味原牧で飼われ,牝牛の生産した牡牛は薬園の耕作に当て,また父牛とすること,味原牛牧の死牛の皮は,売って寮の修理用に用い,売却した価は年終帳に記載して申告すること,などが典薬式に記されている。

 4 酪,蘇,醍醐

 平安朝時代,貴族の生活の中に牛乳製品が,食用,薬用,供饌用として定着していた。乳製品には,酪,蘇があり,また,蘇から精製した醍醐があった。
 「酪」は,酸乳あるいは凝乳の類であろうといわれている。その効能は,渇をいやし,熱をさますにあった。
 「蘇」は「酪より生蘇を出し,生蘇より熟蘇を出す」,また,「酥特によし,酪1斛,升余の酥を得る」とあるように,酪をさらに加工したものであった。酪乳を煮つめたものを太陽熱で乾燥させた固乳が蘇であるという。蘇は全身によく,とくに大腸に利し,口中の荒れによいという。貴族はこれを薬用としてばかりでなく,食用にも用いた。
 「醍醐」は,酥酪を精煉したもので,「粘りて如レ脂色白如レ雲,その味甘美なり,今世俗に蛮語を伝へてボウトロという是なり」ということであるが,これが今日の何に当たるかはっきりしない。これは,わが国ではつくられないので,唐からの舶載によったといわれている。
 涅槃経(ねはんきょう)にいう五味とは,牛乳を精製する過程における五段階の味,すなわち,乳味,酪味,生蘇(きそ)味,熟酥味,醍醐味のことで,精選加工したものほど上味であることを,教法の浅深にたとえ,醍醐味を最上のものとしている。(三省堂(昭和48年)の『広辞林』)

(2)近世における乳利用

 徳川時代になると,八代将軍吉宗の享保13年(1728)オランダから白牛(インド産)牡1,牝3が献上されたので,これを安房国嶺岡牧に放牧した。これがわが国の乳牛飼育の初めといわれている。しかし,明治になって乳用種が輸入されるまでは,わが国に乳用の品種が存在していたわけではなかった。内藤元男(1978)の『世界の牛』によれば,白牛が瑞祥として喜ばれたせいもあるが,これが果たして現在のインド牛系の白牛であるか,あるいはオランダ領インドを経て入って来たオランダ産のフリーシアンなのか不明であるとしている。また,『牧畜雑誌(第2号)』(明治21年9月25日号)によれば,「嶺岡白牛酪考によれば,この牛は本邦産であって,インド産ではない。思うにこの誤伝を招いたのは,同書に,嶺岡の白牛は漢土にこれと比すべきものなし。ひとり天竺雲山の白牛に比す云々とあるからであろう」としている。いずれにしても,白牛はその後,寛政11年(1799)牝牡各1頭が放たれ,文化3年(1806)には87頭に達している。白牛の乳を原料として白牛酪がつくられ,将軍吉宗以後代々薬用または食用としてこれを用いている。

4 肉利用

 わが国では古代肉食をしていた。天智天皇(661−71)の時代には,盛んに牛馬の繁殖奨励をして,肉食をしたという記事もある(石原盛衛(昭和24年)の『和牛』)。一方,農林省畜産局(昭和41年)の『畜産発達史(本篇)』には,「欽明天皇の13年(552)仏教伝来とともに肉食は禁じられた」とある。しかし,飛鳥時代,皇極天皇の2年(642)に大旱魃があり,牛馬を殺して諸社の神を祭った。これがやがて肉食するきっかけになったと推測されているので,これ以前のことはつまびらかにできない。記録により明らかなのは,天武天皇4年(675)深く仏教に帰依する天皇によって,仏教の殺生禁断の教えにより,「牛馬犬猿鶏の宍(しし)(肉)を食することなかれ」という肉食禁止令が布告されたことである。
 その後も聖武天皇の時代(724−749)を初め,しばしば肉食禁止令が出されて,徳川時代に至るまでの1000年以上の長い間,一般日本人の間に肉食とくに牛馬豚の4足獣の肉食を嫌悪する風習が定着した。
 江戸時代,農宝としての牛を食うことは,キリシタン思想であって,日本農業を衰微させる謀略であるとの考えもあったようである。五代将軍綱吉の貞享4年(1687),「生類憐れみの令」が発布され,すべての畜類の殺生が禁じられたのは有名である。しかし,たびたび肉食禁止令が発布されたということは,一部に肉食が絶えかなったためといわれている。また一方では狩猟により得た鳥獣肉を食したし,一部の支配階級は薬餌として獲物の肉を食していた。源氏の大将や徳川将軍初め武家も,仏教の戒律を憚り,殺生禁断令を出しながら,他方では薬猟と称して,自ら先頭に立って狩猟を奨励した。徳川八代将軍吉宗(1716−45)は,大奥で牛肉を煮て食い,11代将軍家斉(1786−1837)は,彦根藩から養生肉と称して献上される近江牛の肉のみそ漬を好物とした。

5 牛皮等の利用

 持統天皇の3年(688)正月,壬戌の条に筑紫太宰粟田朝臣真人らが牛皮6枚を献上したのが初見である。天平10年(738)『駿河国正税帳』に「牛革1枚」と見え,鞆手料の牛皮革や御履料の牛皮は,奈良朝時代に国が一般農民から正税をもって交易して進上していたもので,牛皮一張りの値段は,稲80束から150束であったという。9世紀初頭には東国に牛が多く飼われ,東国からの牛皮貢進があった。
牛皮は宮中で御履料とされ,また,甲冑,鞍などに用いられた。
 石田寛(昭和36年)の「岡山藩における牛馬市ならびに牛馬に関する考察」によれば,「岡山藩の打牛」として「享保7年(1732)6月,公儀から打牛の儀についての御触があり,岡山藩で厳密な吟味をしたところ,打牛をするものが露見した。」,「円通寺の僧が江戸へ下って,備中の御領私領ともに商売として牛を殺す数は,3,000余疋に及んでいるが,これはなげかわしい殺生であるから停止されたいと願いあげた。内証の話では,おおよそ6,000−7,000疋も殺しているのが実情のようであった。」とある。落牛の目的は皮の販売にあったようで,大規模に商売する者があった。享保16年(1741)亥11月,御野郡国守の清五郎は,「私儀常々荒皮蝋之類,御領分より買込,大阪へ積登…」と願い出て,大阪為替差免ぜられていた。岡山藩では,幕府に対しては打牛はないと注進しながら,皮の売買は認めていたため,打牛は絶えなかったということである。
 牛角は,弓の材料に用いられた。『厩牧令』の官馬牛条に,官牛が死んだとき角は胆とともに収めて,処分を待つという規定が見られ,弓の曲がっている内側に牛筋を,外側に牛角をはりつけた。 

6 牛と宗教儀礼

 桓武天皇の時代,延暦10年(791)9月,甲戌の条に,二度にわたって「牛を殺して漢神を祭ることを禁じている。それまでは,中国古代の殺牛祭神の儀礼や信仰が行われていたためであろう。