既刊の紹介岡山県畜産史

第1編 総論

第1章 旧藩時代までの畜産の概要

第4節 牛馬市場

1 牛馬の流通と牛馬市場

 家畜市場は,平安朝末期に牧制度が崩壊して私牧が成立し,貢納の余剰が売り出され場として発達した。
 近世において,産牛地が繁殖,育成,使役の各地帯に分化したのに対応して,産地,消費地,中継地の各市場が機能分化した。備中,備後,伯耆,出雲の山間部は,近世になって製鉄業が盛んになると,牛の商品化が進み,大牛持が発生して,牛市の開設が多くなった。
 大阪天王寺市場は,中央消費地における一大供給市場として,17世紀末ごろから,近畿を初め中国,四国,あるいは遠く九州から牛馬商人が集まり盛況を極めた。「備前,備中の国おおく牛を飼て子を産す。すなわちこれを天王寺におくる。……年中,備前,備中より牛を引き来ること日々にたえず」と,『日本山海名物図会』にみえるとおり,備前,備中から盛んに天王寺市へ『登り牛(のぼりうし)』を仕向けていたことがわかる。しかし,天明のころ(1781−88)から藤野牛市を中心として,備前の登り牛の比重は低下し,これに代わって美作の比重が高まり,幕末のころは美作が登り牛の中心となり,久世と一宮(現津山市)の牛市が,登り牛を送り出す中心市場として繁栄した。このようにして,作州は車牛として,畿内の和牛流通市場を闊歩し,「東牛(ひがしうじ)」と呼ばれた。これに対して備中牛の多くは,備後,安芸,石見の西国各地に移出され,農家の耕作用にすぐれた「西牛(にしうじ)」として重宝がられた。その主産地は,阿哲郡千屋(ちや)村(現新見市)であった。千屋牛の名声は,鉄山師であるとともに牛の飼育に功労のあった太田辰五郎(1801−54)とともに広く知れわたっていた。
 備中松山市場は,寛永のころ(1624−43)松山藩によって開設された中継市場として,千屋市場は鉄山師太田辰五郎によって天保5年(1834)に開設された産地市場として,ともに繁栄した。日本三大市場の一つである伯耆大山牛馬市は,祭礼の場所に,山陰,山陽,四国の13カ国から牛馬が集まって盛況を極めたが,ここから畿内の大消費地へ移出されるものは,久世市場などの中継市場を経由していた。しかし,以降,鉄道の発達その他交通事情の変遷に伴い,家畜市場の立地は大幅に変容した。
 備前,備中の家畜商によって取引きのあった九州豊後(現大分県)では,近世後期,優良な子牛は備中向けとしていた。
 四国讃岐の牛も,備前,備中さらには伯耆大山市へ移出されていた。  

2 牛馬商

 領主が任命する特権的牛市管理者は,最も高い地位に立つ牛馬商で,天王寺牛市における石橋孫右ヱ門,松山市場における中曽屋など,その最たるものであって,世襲の職であった。近世後期,中国地方の産牛地に見られるように,鉄山師あるいは上層農民である蔓牛(つるうし)造成者が,牛馬商を兼ねるものが多く,旧藩時代の牛馬商は地方の有力者であった。