既刊の紹介岡山県畜産史

第1編 総論

第2章 明治,大正時代における畜産の発達

第4節 種畜場

1.岡山県種畜場

 明治35年(1902)4月30日,国は「道府県種畜場規則」を設け,地方における適切な種畜供給機関の設置基準を示し,その設立を促した。県は同年5月の通常県議会の議決を経て,翌36年(1903)4月,その設立認可を国に申請した。国の認可がおりて,岡山県種畜場が設置されたのが同年5月13日であった。業務は翌37年(1904)6月1日,御津郡伊島村上伊福(現岡山市上伊福)において開始された。はじめ種牡牛,種鶏,種豚などを飼養し,優良品種の普及のため種付けや払下げなどを行った。岡山県内務部(昭和3年)の『岡山県畜産要覧』によれば,当時の種畜・種鶏の繋養頭羽数は表2−4−1のとおりであり,またその業務は,@乳用種牛の繁殖育成,貸付,種付け,A種豚の繁殖,払下げ,B種禽種卵の払下げ,C飼料作物の栽培,牧草種子の配布,D種畜飼養試験,E乳肉製品製造試験,F畜産に関する指導,などであった。

 つぎに,設立以来昭和2年(1929)までの成績は次のとおりであった。すなわち,種畜の購入については,ホルスタイン種牡27頭(いずれも育成のうえ種牡として貸付,以下同じ)および牝7頭,合計価格4万6,060円,エアシャー種牡20頭および牝4頭,価格合計1万5,565円,ブラウンスイス種牡2頭,価格2,600円,雑種牡22頭および,牝2頭,価格5,244円,和種183頭,価格6万9,465円であった。つぎに生産頭数は,ホルスタイン種牡44,牝35計79頭,エアシャー種牡26,牝28計54頭,雑種牡4,牝8,計12頭であって,牡は育成のうえ貸付し,牝は場用を除くほかは委託または払下げとしている。昭和2年(1927)における種牡牛の貸付および種付頭数は表2−4−4のとおりであった。種豚については表2−4−3のとおりであった。

 種鶏,種卵については,大正12年(1922)度から払下げを行っているが,品種は白色レグホン種と名古屋種の2つで,市町村,同農会等をとおして,昭和2年(1927)までに合計種鶏628羽,種卵1万5,788を払い下げている。  

2.岡山県種畜千屋分場

 大正9年(1920)通常県議会において,和種牡牛の育成配布ならびに和牛に関する各種の試験調査を行う種畜場の設置の件が議決され,翌10年(1921)5月,種畜場分場(国は「道府県種畜場規則(明治35年4月30日)により,1県1場主義をとったので分場とした)設置を国に申請し,6月認可を得た。
 和牛の主産地である阿哲郡千屋村(現新見市千屋)に,同年11月20日すなわち千屋大市の開市日,に開場式を挙行し業務を開始した。用地面積は50ヘクタール(建物敷地50アール,耕地5ヘクタール,採草地18ヘクタール,放牧地26ヘクタール)であった。
 用地を千屋村に選定するまでの経緯について,当時県技師橋本正(後に初代分場長)は候補地3カ所すなわち後月郡三原村(現芳井町)川上郡宇治村(現高梁市宇治町)および阿哲郡千屋村(現新見市千屋)を実地調査のうえ,三者を比較検討したうえで,千屋が最適という復命書を提出している。その理由は,千屋牛の主産地であること,用地の大部分を地元千屋村が無償で提供するという熱意を示したこと,当時としては比較的近距離に村落があり,小学校もあって,社会的環境に恵まれていたことなどを挙げている。
 おもな事業は次のとおりであった。すなわち,@種牡牛の育成ならびに配布,A種牡牛の委託育成,B種牡牛の余勢種付,C和牛の改良繁殖に関する調査および試験,D飼料作物の栽培調整収穫に関する事項,E畜産の実地指導ならびに質疑応答,などであった。 
 開場以来昭和元年(1926)までに,種畜払下規程により各郡畜産組合,または郡農会に対して払い下げた種牡牛は106頭であって,種付牝牛頭数は1万頭を超え,産犢約7,000頭を得た。
 つぎに,払下げを行った種牡牛頭数は,大正10年(1921)の9頭に始まり,以後11年15頭,12年16頭,13年21頭,14年21頭,昭和元年24頭,同2年23頭であって,この年までに計129頭の払下げを行っている。
郡市別にみて,最も多かったのが阿哲郡の17頭で,ついで上房郡15頭,真庭および苫田の両郡が13頭ずつ,川上郡11頭,脇田郡10頭という順序で,全然払下げが行われなかったのは,邑久,上道,御津,都窪および児島の5郡であった。