既刊の紹介岡山県畜産史

第1編 総論

第3章 昭和前期における畜産の推移

第3節 畜産共進会

 家畜改良上重要な役割りを果たし,ひいては畜産の発達に多大の貢献をした畜産共進会のうち,出品家畜が2種以上にわたる総合共進会について,明治年代から現在に至るまでを一括して述べることにする。
 明治に入って,政府は勧業政策の一つとして,各種物産の共進会開催の重要性を認め,明治9年(1876)「内国勧業博覧会規則」を公布し,明治10年(1877)東京上野公園で第1回内国勧業博覧会を開催したのを初めとして,その後数年おきにこれを開催している。また,明治13年(1880)各府県に通牒を発し,共進会などの開催を促進する措置を講じている。これらにより,各種の共進会等が盛んに開催されるようになった。
 明治41年(1908)5月,政府は産牛奨励規程(農商務省令第11号)を公布して,道府県連合共進会または道府県区域の畜牛共進会の開催を促し,入賞に対する賞金の授与,審査長の派遣,ならびに畜牛改良功労者に対する奨励金下付などを行ない,斯業の奨励に努めている。
 明治43年(1910)3月25日,農商務省令第3号により「道府県連合共進会規則」が公布され,道府県が連合して産業に関する共進会を開催しようとするときは,主務大臣の許可を受けなければならないこととした。この規則の概要は,@道府県の連合区域は6道府県以上15道府県以下とする(第3条),A5年目以後でなければ同種の物品について連合共進会は原則として開催できない(第5条),B主務大臣は審査長,審査官および審査員を命じ,優等と認めるものに褒賞を授与する。ただし,審査員に関する旅費は連合府県の負担とする(第7条),C褒賞を1等から4等までの4種とする(第8条),D主務大臣は出品と同種の産業に関して功労顕著と認める者に対し,その人の存亡にかかわらず功労賞杯を授与する(第9条)などであった。これによれば,第8条により等級別入賞割合があらかじめ定められていて,現在のように出品された現物次第で入賞割合をきめるようなことはできなかった。中国連合畜産共進会は,戦後になって,昭和23年(1948)島根県松江市において開催の第14回以後は,前記の規則によらないで,連合府県の自由な申し合わせによって開催されるようになった。
 さて,過去における畜産関係共進会等の概要は次のようである。
 記録に見える最も古いものは,明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会である。明治32年(1899)には,岡山市の後楽園において第1回岡山県畜牛共進会が開催されている。翌33年(1900)には,第1回中国連合共進会が島根県主催により,同県三瓶(さんべ)原野で開催されている。畜産専門の大規模な共進会としてはこれが初めであった。ついで,第2回は明治35年(1902)岡山県主催により苫田郡一宮村(現津山市)で開催された。明治36年(1903)以後,各郡市区域の畜産共進会や品評会がしきりに開催されるようになった。
 県区域以上の各種共進会の第1回について,その概要を列記すれば表3−3−1のとおりである。

1.内国勧業博覧会

 (1) 第1回内国勧業博覧会
 この博覧会は,明治10年(1877)8月,東京市上野公園で開催され予想以上の効果を納めたという。御野郡西中山下(現岡山市)上垣源夫が乾酪(チーズ)を出品した。このとき県費1,000円を支出して,管下の出品運送その他の経費について補助した。明治8年(1875)着任した県令高崎五六は,勧業課の中に「博覧会科」を設け,博覧会に積極的であった。
 (2) 岡山民立博覧会
 これは,明治12年(1879)4月1日から6月14日までの75日間,岡山城天守閣で開催された。
 (3) 第2回内国勧業博覧会
 これは,東京市上野公園において,明治14年(1881)3月1日から6月30日まで開かれ,真島郡見尾村(現勝山町)池田類治郎が1回雑種(牛)牝牡2頭を出品して,二等有功賞牌を受けた。このときも出品補助金が地方費の中から出品された。
 (4) 第3回内国勧業博覧会
 これは,明治23年(1890)東京市上野公園で開催され,阿哲郡千屋村(現新見市)宮原常太郎が内国種牡牛を出品して三等有功賞を受けた。
 (5) 第4回内国勧業博覧会
 これは,明治28年(1895)京都市で開催された。このとき阿哲郡新砥(あらと)村(現哲多町)土屋覚一郎が自家生産の和牛を出品して賞牌を得た。
 (6) 第5回内国勧業博覧会
 これは,明治36年(1903)5月5日から大阪市において開催されていて,この中に家禽部が同月20日まで催されているが,本県からの出品など不明である。
 (7) 第6回内国勧業博覧会
 これは,明治38年(1905)大阪市において3月1日から開催されているが,本県からの出品についての詳細は不明である。
 (8) 畜産博覧会
 大正10年(1921),畜産博覧会が,東京市において4月30日から10日間開催されているが,その内容や岡山県からの出品については不詳である。

2.中国連合畜産共進会

 第1回中国連合畜産共進会が,島根県主催により,同県三瓶原野で,明治33年(1900)開催されたことは既述したとおりである。中国連合畜産共進会は,別表のように数年おきに参加各県輪番で開催されていて,明治41年(1908),山口県山口町(現山口市)における第4回から兵庫県を加えて中国6県連合となっている。各回の概要は表3−3−2に示すとおりで,時勢を反映してその出品内容に変遷が見られる。この共進会は,昭和11年(1936)岡山市における第13回まで数年おきに開催されて来たが,その後戦時体制下一時中断された。戦後,昭和23年(1948)松江市において第14回として再開され,ついで,昭和25年(1950)鳥取県東伯郡倉吉町(現倉吉市)において第15回が開催されたが,この共進会には社団法人全国和牛登録協会主催の全国和牛登録牛研究会が併催されている。また,この回だけは京都府が参加して中国7府県連合共進会となっている。

 出品の種類や点数は,それぞれの時代を反映して多岐にわたっているが,終始総合畜産共進会の形を取り続けて来たこの共進会も,昭和28年(1953)広島市における第16回には,和種々牛の出品は,同所において,この共進会のあと引き続き開催された第1回全国和牛共進会へ出品のため,除外された。また,昭和26年(1951)には,全日本ホルスタイン種牛共進会が神奈川県平塚市において,さらに翌27年(1952)には第1回全日本豚共進会が静岡県三島市において,それぞれ開催されるというように,各家畜ごとに全国的規模ないし,主産地ブロックごとに,共進会が開催される気運になったため,中国連合畜産共進会は,昭和36年(1961)神戸市で開催された第18回をもって発展的に解消し,半世紀を超える歴史の幕を閉じたのである。
 つぎに,この共進会における岡山県の成績は,表3−3−3のとおりであった。
 共進会における入賞等級について,先入の口伝によれば,なるべく各県に均等に割りふるよう配慮された模様で,等級のよくなかった県の出品者が,審査を不満として不穏な言動をとったこともあったということである。このため,審査の過程においては,どの出品が上位に入賞するかどうかが審査員以外の者には容易に分からないように審査することに腐心したということである。このことは,昭和10年代になっても,まだ残っていたようで,畜産共進会開催の目的のうちの大きな部分を占める展示効果をねらうということから逸脱して,いちずに等級を競うというへんぱな姿勢があったもので,今昔の感に耐えない。

3.岡山県畜産共進会

 全県規模の畜産「総合」共進会は,明治32年(1899)岡山市後楽園において開催された第1回をもって,最初とすべきかも知れない。しかし,実質的には大正8年(1919)岡山市において,県畜産組合連合会主催により開催された第1回岡山県畜牛家禽共進会をもって初めとするものであろう。この共進会は,昭和18年(1943)真庭郡久世町において開催された第25回まで,毎年各郡市畜産組合の持ち回りで開催されているが,以後戦争のため中断された。
 戦後いち早く昭和21年(1946)10月,阿哲郡新見町(現新見市)において県共進会が復活開催された。この共進会は,戦後初めてという意味で第1回岡山県畜産共進会といい,主催は県農業会となり,昭和27年(1952)まで団体主催で開催された。昭和28年(1953)の第9回から,同39年(1964)の第20回までは県主催で開催された。その後は,県経済連と県酪連とが交互に主催して現在に及んでいる。この共進会は,毎年秋季1回開催を常例としているが,昭和24年(1949)だけは,春季に第4回が岡山市において,岡山産業文化大博覧会の協賛事業として開催され,また,秋季に第5回が上房郡高梁町(現高梁市)において開催されている。昭和34年(1959)の第15回は,酪農文化祭の一環として,乳牛だけは津山市(県酪農試験場)において開催され,和牛の部は新見市において,日時を異にして開催された,これらについて,その概要を次に一括表示しよう。