既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第1章 酪農の発展

第1節 酪農の展開

2.酪農のはじまり

(1)乳牛の飼養状況

 大正13年(1924)県下の牛の頭数は,9万9,195頭で,牛馬の飼養密度は,1農家当たり0.6頭,耕地1町5反当たり1頭であった。しかし,地帯別にみると和牛の主産地である阿哲,真庭,苫田,川上等の諸郡に偏しており,これらの農家は1戸当たり1〜2頭を飼育していた。これに反して南の児島,浅口地方には,1〜0.2頭と少なく,耕作2町5反〜4町歩に1頭という割合で,その分布は著しく不均等であった。
 さて,同年7月における乳牛の郡市別飼養状況は表1−1−5のとおりで,総頭数3,400頭の分布は,前者と反対に,ほとんど南部に集中し,僅かにみられ中北部のものはほとんど搾乳業者の飼育するものであった。県内の営業者は136戸,その飼養頭数は1,011頭で,農家の副業的飼養は1,728戸,乳牛頭数2,389頭であった。これらの農家の実態をみると,乳用子牛を購入して育成し,妊娠牛として県外に移出するものがほとんどで,繁殖をするものは,ごくわずかであった。大正10年(1922)邑久郡に岡山煉乳株式会社が,翌12年(1923)小田郡に山陽煉乳株式会社が,それぞれ創立され,これによって,会社周辺の農家乳牛飼養は急増して,同10年(1922)に約600頭位であった乳牛が,同13年(1924)には1,400頭と実に2倍にもなったのである。これらの2つの会社は,当時県南部の副業的乳牛飼養の核心を形成したものである。

(2)乳牛能力
 泌乳量の多少は,1日最多乳量のみでは判定できるものではなく,1乳期の総乳量によってその経済価値は定まるものである。しかし,長期間の乳量を記録したものが見当たらないので,当時の岡山県乳牛協会の能力共進会の成績によって,その能力を判断すれば次のとおりである。(この調査は,連続3日間の搾乳量を調査して1日平均量を求めたのであって,大正12年(1923)および13年(1924)度の成績中優良のものは表1−1−6および表1−1−7のとおりであった)

 この共進会は次の規程によって実施されたものである。

  第2回岡山県乳牛協会能力共進会規程

 第1条 本会ハ乳牛飼養管理ノ改善並ニ能力ノ向上ヲ図ルヲ以テ目的トス
 第2条 本会開催ノ区域ハ県下一圓トシ事務所ヲ岡山県庁内二置ク
(第3−5条略)
第6条 審査検定期間ハ三日間トシ二十四時間ノ搾乳量ヲ以テ一日量トス但審査開始前準備搾乳ヲ行フ準備搾乳ハ一日三回搾乳ノモノハ八時間前,四回搾乳ノモノハ六時間前トス
 乳量ハ封度秤ヲ用ヒ封度ヲ以テ一升ニ換算ス
第7条 搾乳時刻並搾乳回数ハ随意トス,但シ審査開始予定日時ノ変更ヲ要スルモノハ申告予定日三日前迄ニ本会ニ届出テ承認ヲ受ク可シ
(第8−10条略)
第11条 牛乳ノ脂肪率ハ三%ヲ基準トシ,基準脂肪率ニ対シ脂肪0,1%ヲ増減スル毎ニ,乳量1%ヲ加減スルモノトス
第12条 年齢及時期ニヨリ乳量ヲ左ノ如ク計算ス
 1.乳歯六枚以上ヲ有スルモノハ総乳量ニ其三割ヲ加フ
 2.乳歯史枚以上ヲ有スルモノハ総乳量ニ其二割ヲ加フ
 3.乳歯二枚以上ヲ有スルモノハ総乳量ニ其一割ヲ加フ
 4.乳歯一枚ヲ有スルモノハ総乳量ニ其五分ヲ加フ
 5.乳歯ヲ有セサルモノハ増減ナシ
右ノ外七月十六日ヨリ九月十五日迄ノ検査ニ付テハ,仝上七厘ヲ加フ
第13条 分娩後六十日ヲ経過シタルモノハ,爾後一日毎ニ其ノ千分の二・五ヲ逓加シ,分娩後百二十日迄ニ至リテ止ム
(第14条以下略)

(3)製乳事業

 本県の洋牛の40余年にわたる歴史の大半は育成が中心であった。明治40年(1907)ごろはその数1万頭余りを誇り,全国でも有数な乳牛飼養県であった。しかし,育成中心では利益が薄く,また改良の途が閉ざされ,他県に圧倒されたために,乳牛頭数が減少し,その後は急激に声価を失墜した。有志ならびに県は,このことを大いに憂い,大正2年(1913)に岡山県畜産会は,煉乳事業創設準備会を組織し,「煉乳事業創設ニ関スル意見書」を発表し,「煉乳製造所創設準備会約款」を設けた。また明治45年(1912)に岡山県畜産会は,奥山吉備男を岩手県小岩井農場,ならびに北海道月寒の農商務省月寒種畜牧場に派遣して煉乳技術を習得させた。
 大正4年(1915)に,県は畜産会に対し調査費を交付し,千葉,静岡,北海道の煉乳事業を調査させ,煉乳事業を計画させたが,一般の情勢はこれをいれず,製造会社はその製法を秘密にしてもらさず,ために会社の創設は失敗した。
 県種畜場は大正6年(1917)から同8年(1919)まで,平鍋2個を備えて乳製品の製造試験を実施した。また,大正7年(1918)には,神戸市小谷岩雄が,邑久郡長浜村(現牛窓町)に牛酪製造所を設置したが,乳価問題のため数カ月で中止した。大正11年(1922)6月邑久郡内有志が推進力となって,岡山煉乳株式会社が事業を開始した。ついで,その翌年7月には,小田,浅口両郡の乳牛を背景にして,山陽煉乳株式会社が設立され,ここでも煉乳事業が開始された。