既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第1章 酪農の発展

第1節 酪農の展開

3.昭和年代の酪農

(3)戦後の酪農

 戦後の日本の酪農の推移を検討する場合,種々時代区分ののしかたがあるが,最も一般的な区分に従うと,第1期は,昭和20−25年(1945−50)の「低迷再建(混乱)期」,第2期は昭和26−29年(1951−54)のいわゆる「復興期」,第3期は昭和30年(1955)以降の「激動期」である。さらに,昭和35年(1960)までを「酪農家増加期」,その後40年(1965)までを「選別的発展期」,昭和41年(1966)以降を「新酪農政策期」と呼んでいる。昭和48年(1973)はオイルショックにより配合飼料価格の値上げ,牛価の暴騰,暴落のあった年で,酪農はもちろん,日本経済が大打撃を受けて進路変更を余儀なくされ,長い不況期を迎えたわけである。これにより酪農界は50年(1975)までは混乱があったが,その後,昭和53年度末までは比較的平安な推移をみている。この期間を「安定成長期」と呼ぶことにしてはどんなものであろうか。

  1 第1期(昭和20〜25年)「酪農の低迷・再建期」

 戦後により,官公庁はもとより一般県民は呆然自失,なすべきところを知らなかった。幸い岡山県下では,敗戦時における治安は平穏に保たれた。しかし,終戦直後の9月17日と10月9〜10日の2回にわたる台風により,死者80名,何らかの被害をこうむった者18万人にものぼった。そして,牛152頭,馬24頭,兎5,000頭を失った。とくに吉井川下流地帯の被害が激しく,邑久郡方面は堤防が決潰し,さきにうけた戦火のうえに,さらにこの被害と重なった。県民の生活は窮乏し,ことに食糧と住宅は絶対量の不足で深刻を極めた。食糧の窮乏はひどく,生産農家はともかく,配給にたよる家庭は,配給量だけでは生きることさえ困難であった。食糧品にヤミ値が横行し,食糧難のために栄養失調に陥るものが多く,昭和20年(1945)には栄養失調で死亡した者が,県下で214人に達したと言われている。同年12月29日,岡山県下の4市会議長,町村会議長連盟の陳情書が,岡山県知事のほか,内務,農林両大臣あてに提出された。その内容は次のとおりで,当時の食糧危機の事情をよく説明している。
 「終戦後承詔必謹,万難に堪えてポツダム宣言の実行と,新生日本建設に必死に邁進すべきは,国民に課せられたる重大使命なり。然るに一たび現下国民生活の状態を見るに,衣食住共に極度に窮迫し,就中,食生活の如きは,生命の糧たる主食1日僅か2合余に過ぎず。今や塑風凛然の冬季を迎え,顔色愈々憔悴し,気力全く鎖尽し,遂には餓死者に満つるの惨情を現出せんとす。而も国民の大部は,生きんがために日夜主食の獲得に餓狼の如く狂奔し,悪徳不義日に跳梁し,道義の頽廃,思想の不穏,今日より甚しきものなし,即ち今にして事態を匡救せずんば,国家国民の破滅を招来するの大事に至らんも計り難し。而して,斯る超非常の秋,吾人は敢えて綾羅珍羞を求め,生活の余悠を強請するにあらず,唯一椀の食を欲するのみ。庶幾くば,閣下刻下国民食生活の如何に悲惨の極にあるかを直視せられ,これが施策の当否が国家存亡の岐るる大事なるを思を致され,断々呼として1日2合余の主食配給を,1日3合に増配せられるよう緊急御措置あらんことを,ここに岡山県市町村民を代表し,一片の款々辞を舒べて御精清鑑に訴ふる次第なり。」
 この食糧危機を乗り切るために,61万8,000石の供出米の督促を行なったが果せず,ついに強権発動が行なわれた。県下の食糧難の最も深刻な時期は,昭和21年(1946)10月までであった。翌11月から配給基準量が2合5勺(345瓦)さらに同23年(1948)11月から2合7勺(382瓦)増配となり,ようやく食糧難を脱した。戦中,食料及び畜産品に対し多くの制限があったが,先ず昭和23年(1948)に飼料統制が撤廃になり,同25年(1950)2月22日飲用牛乳が,ついで3月には乳製品類が統制解除となった。また同年3月31日に飼料配合規則が廃止され,4月1日づけで飼料需給調整規則が制定された。また同年1月には乳幼児食品需給調整規則が公布され,乳幼児に煉粉乳の配給が実施された。

(1)県内各地の酪農事情等

 当時の県内各地域の酪農事情はおおむね次のようであった。
 戦時中は約3,000頭の乳牛が飼養され,その分布は表1−1−10のとおりであったが,終戦の混乱により,昭和21年(1946)には約1,700頭に激減した。その分布をみると県南の備前と備中に集中していて,その内搾乳牛は1,487頭,搾乳量は日量41.6石であった。飼養頭数は全国第13位で,改良の進度は北海道・石川・静岡・千葉・兵庫についで第6位といわれていた。牛乳は戦時中は飛行機用のカゼインをとることが主目的となり,残りを子供や病人が飲んだといわれている。昭和20年(1945)終戦の年の乳牛3,260頭の内705頭は「牛乳搾取処理販売業」(牛乳屋)のもので,2,555頭が「牛乳搾取業」(酪農家)の所有であった。その後,終戦の混乱と人手不足,飼料不足,牛価の暴騰によって乳牛は激減したが,とくに牛乳屋のそれの減少が著しかった。

 この当時の特徴的なことは,津山市を中心とするいわゆる作州に「酪農」という形で乳牛が導入され増殖されつつあったことである。
 作州地区は,戦後急速に酪農が発達した地帯で,豊富な草資源と,恵まれた立地条件は酪農の経営には好適な条件を備えており,既述のとおり昭和18年(1943)3月に,県産連がホルスタイン種を預託事業として津山市,福渡町(現建部町)に導入したのが導火線となり,酪農に対する認識が高まり,津山市を中心に主として交通の便のよい平坦地に普及しつつあった。
 邑久郡地方は,大体畑と水田地帯を背景としたいわゆる水田酪農地帯とも言い得る地帯であって,明治時代から乳牛を飼養してその歴史は古く,県下では最も進歩した水田酪農地帯であって,当時乳牛は200〜600頭の間を増減していた。酪農不況時の200頭は,系統的に優秀なものが残ったもので,これらが後に本県乳牛の改良に大きく貢献した。
 小田・浅口地方は主として畑作・果樹園芸と結びついた酪農経営であって,養鶏とともに肥料源としての酪農が重要視されていた。
 乳価の決定は,「酪農業調整法」(昭和14年 法第27号)により岡山県酪農協議会(昭和14年(1939)11月14日設立)が行っていた。昭和19年(1944)4月に諸物価の値上りにより,乳価を1升2円10銭に値上げしていた。戦後は,昭和21年(1946)に6円8銭,22年(1947)に19円12銭,23年(1948)に49円30銭というように毎年3倍ほどの値上りであった。生乳は「酪農業調整法」により規制が加えられていたが,同17年(1942)11月28日の岡山県告示により価格の統制と格付けがなされていた。

  「岡山県告示」(第1588号)

 1 乳製品原料トシテ取引セラルル牛乳 牛乳(全乳)五〇〇匁ニ付,含有脂肪率一パーセント当り,一一、八七五銭トス。但シ含有脂肪二・八パーセント未満ノモノ,又ハ摂氏一五度ニ於テ比重一、〇二八ニ満タズ,若シクハ一、〇三四ヲ越ユルモノ,其他煉・粉乳原料トシテ使用スルコトヲ得ザルモノハ,五〇〇匁ニ付含有脂肪率一パーセント当り一〇、九四〇銭トス。右価格ハ,牛乳生産者団体ノ集乳所渡ノ価格トス。牛乳買受者ヨリ牛乳生産者団体ノ施設ニ対シ補助金ヲ交付スル場合ハ,知事ノ許可ヲ受クベシ。
 2 飲用牛乳原料トシテ取引セラルル牛乳 牛乳(全乳)五〇〇匁ニ付,含有脂肪率一パーセント当り一七、五〇〇銭トス。但シ含有脂肪率二・八パーセント未満ノモノ,又ハ摂氏一五度ニ於テ比重一、〇二八ニ満タズ,若クハ一、〇三四ヲ超ユルモノ,其ノ他飲用牛乳原料トシテ使用スルコトヲ得ザルモノハ,五〇〇匁ニ付含有脂肪率一パーセント当り一一、四一〇銭トス。牛乳ノ脂肪検査施設ナキ者ノ取引スル牛乳ニ在リテハ,含有脂肪率ノ標準ハ三パーセント超ユルコトヲ得ズ。右価格ハ買受人ノ牛乳処理所渡ノ価格トス。
 当時の慣行の取引単位は所謂「マス」買いで1升単位であったが,正式にはこの公報のように500匁単位であった。
 戦時中は米麦,イモ類等の食糧増産に追われて濃厚飼料の生産は極度に減退し,その上自給飼料を作付けする圃場の余地も無かった。昭和19年(1944)農業会に対して,自給飼料作付けのための面積割当ての陳情書が各地から殺到したのも終戦前後のこのような飼料事情のときであった。
 昭和22年(1947)草地改良事業のため,指導指定地を各地に設け,啓蒙宣伝に努めた。また,畦畔草を改良するため,牧草の種子を無償配布した。このため牧野の改良は各地で次第に積極的に実施されるようになったが,昭和25年(1950)に牧野法(法律第194号)が制定され,これにより同27年(1952)には管理牧野71団地,面積9,157町歩余,保護牧野13団地,面積720町歩余が認可された。これらの用地に対しては,土壌改良および飼料木の植栽により改良を行うとともに,優良牛を導入して草種植生の改良を図り,また牧野用施設面の整備を図るため,補助金が交付された。(大型トラクターによる草地造成事業は昭和28年(1953)から始められた。)

(2)酪農の指導

 酪農の指導は,岡山種畜場が中心となって行っていた。乳用種牛の貸付,種畜の払下げ,種付実務者の養成指導,酪農に関する講習会,講話会,実地指導などが行われ,また人工授精も行われていた。
 県は県酪農組合連合会に,地方酪農中心人物の養成,飼料の配給,牛乳の配分,乳牛の共同購入,優良種雄牛の設置充実,婦人酪農の奨励,乳牛検定組合の設置奨励,乳牛共進会の開催,乳牛登録の指導,乳牛の貸付事業,乳製品製造工場ならびに牛乳処理場の整備,牛乳の集出荷の促進事業,酪農経営に必要な物資の配給等を行なわせていた。
 昭和21年(1946)岡山県農業会に畜産部が設けられ,部長に奥山吉備男が就任して酪農振興に努め,とくに美作の酪農振興に重点を指向した。県農業会は同年「岡山県農業会酪農指定町村設置要項」を設け,これにより地域(町村)を指定し,指定町村には部落指定酪農地設置に要する経費,牛乳集荷処理施設,酪農業に関する知識普及施設等に対して補助金を交付した。またこの事業と併せて酪農奨励計画を策定した。

  酪農奨励計画(抜粋)(昭和21年 岡山県農業会)
 1 酪農地帯の設置
    酪農指定町村の設置
   支部名   指定町村
   真庭  勝山町 久世町 落合町
   苫田  津山市 田邑村 高倉村 芳野村
   勝田  広戸村 吉野村 大崎村
   久米  加美町 久米村 大東村
   御津  福渡町 神目村 鶴田村 弓削町 三保村
    〃   建部町  上建部町 横井村 野谷村
 2 乳牛導入預託5カ年計画
  イ 導入預託5カ年計画

  ロ 昭和21年度導入預託計画

 県別導入頭数

 ハ 乳の集荷処理並加工場の設置
 加工場建設地並に区域
  建設地  津山市
  区 域  津山市,苫田郡,真庭郡,勝田郡,久米郡,御津郡の一部
 製造能力  1日 20石
 乳製品工場設計書並に予算書(省略)
  集荷方法 久世町,福渡町,勝間田町の3カ所に簡易集乳所を建設し,単位農業会に集乳せしめたるものを最寄の集乳所に出荷し,之等集乳所に於て,採貫検定し,鉄道,トラック,オート三輪を以て工場に集荷す。此処において更に採貫検定す。
  原料乳輸送費 単位農業会までの輸送費は個人負担とし,単位農業会より集乳所までの輸送は本会が負担する。
  処理方法 集乳所に集乳せる牛乳の一部を健康保険組合その他と直結し,必要量を市乳としても処理し,他を加工場に送る。

(3)岡山種畜場の移転整備

 戦後極度な食糧難と,混乱した社会の中に,連合軍総司令部による民主化が進められ,政治経済などすべての面で画期的な改革が行われた。昭和22年(1947)4月,最初の公選知事として西岡知事が生まれた。県は自治体として独立したとはいえ,県の財政は苦しく,予算は年に12回にわたって追加更正される有様であった。県議会から積極的な政策実施の強い要請があっても,「ない袖は振れぬ」という実情であった。窮余の策として,砂糖生産税,砂糖搾機税,アイスキャンデー税,木材取引税,果樹税など県独自の新税を起こした。その中に牛馬税があった。奥山の口伝によると,この牛馬税(昭和23年3月26日)は法定外独立税であって,牛馬1頭につき75円であった。徴収額は昭和23年(1948)に819万円,翌24年(1949)833万6,000円であった。このほか起債547万4,000円と併せて2,200万円で岡山種畜場を移転整備したということである。
 実はこの岡山種畜場の移転問題は戦時中からの懸案事項であった。岡山市上伊福の種畜場は僅か1.6町歩しかなく,ますます重要性を増して来た畜産の指導機関としては規模が小さいことが指摘され,昭和20年(1945)11月3日には「岡山県畜産経済指導農場建設案」が県議会で承認され,御津郡牧石村三軒屋(現岡山市宿)に適地を求めたが,ここに英印軍が進駐したためにこの計画は一頓挫した。昭和22年(1947)8月に英印軍が撤収したので,同24年(1949)11月に念願の移転を完了した。ところが,その後同30年(1955)に,自衛隊がアメリカ軍から移譲された弾薬を保管するために,場内にあった弾薬庫を必要として買収の申入れがあり,1億9,000万円で移譲した。これを資金として,昭和31年(1956)4月1日,岡山県酪農試験場,同養鶏試験場,同和牛試験場の3試験場が設けられた。

(4)酪農組合の誕生

 昭和22年(1947)11月19日に制定された農業協同組合法(法律第132号)は,「非農民的利害に支配されず,かつ農民の経済的,文化的進歩を目的とする農業協同組合を設立して,戦後の農村民主化を図る」ためのものであった。
 この法律と並んで農民解放の大きな柱であった農地解放が急激に進められ,農村は一大変革期を迎えていた。戦前からの農業関係団体と異なり,農民の経済的,社会的地位の向上を図る新しい自主的な農民組織をつくるべき時期に来ていたのである。
 岡山県では昭和23年(1948)8月の農業会解散の法定期限内には,一般および特殊を併せて426農業協同組合が設立され,24年(1949)末までには517組合が設立された。また,この間に郡区域の連合会や,県区域の連合会もすべて設立を終り,郡連合会は,畜産,園芸,青果物,酪農,厚生,電気利用,農産加工,農機具修理,三椏等の連合会が,また県連合会は,信用,販売,購買,畜産,養蚕,園芸,運輸,開拓,指導等がそれぞれ発足した。この中に昭和20〜25年(1945−50)の間に設立された酪農関係農協すなわち岡山県北部酪農協,邑久郡酪農畜産販売農業協同組合連合会ならびに,山陽,美作,苫田,平津,平和,備南,都倉の各酪農業協同組合等が含まれていた。

(5)おもな出来事

 昭和22年(1947)2月20日,津山市鶴山館において岡山県農業会酪農課主催による酪農大会を開催し,講師として農学博士角田英二,全国農業会技師尾野判治を招き,161名の出席者で盛会であった。
 同年12月10日,天皇陛下は岡山市天満屋で開催中の岡山県物産展覧会に行幸,畜産品33点を御覧になった。畜産関係で主な出品物は,煉乳15函(明治乳業笠岡工場)粉乳6函(ネッスル),バター15ポンド(ネッスル・明治)その他鶏卵,ホームスパン,和牛置物等であった。
 昭和24年(1949)4月,岡山県酪農協会では,岡山県保留牛要綱を制定し,優良牛250頭を保留して乳牛の改良増殖を図った。
 翌25年(1950)2月22日には飲用牛乳の統制が撤廃され,3月には乳製品類統制解除が行われ,また,4月1日から飼料の統制が撤廃された。県では飼料配給調整規則を制定公布し,即日実施して混乱を防止した。
 同年9月15日,岡山県酪農協会々長,奥山吉備男は,乳牛同好者に「岡山県乳牛研究会会則」案を示し研究会の結成を呼びかけた。

  第1回乳牛共進会

 昭和25年(1950)5月9日から11日まで,岡山種畜場移転落成協賛第1回岡山県乳牛共進会が岡山県酪農協会主催で,御津郡牧石村(現岡山市)の岡山種畜場において開催された。審査には県の職員が当たり,審査顧問として農林省畜産試験場,檜垣技官,農林省北海道月寒種畜牧場,田島技官,日本ホルスタイン登録協会,小林技師を迎えた。出品はホルスタイン種50頭であった。この間,岡山種畜場内の解放や,酪農大会が開催された。第3日目は,中央から山根畜産局長,田口畜産協会副会長を迎え,佐藤副知事の出席の下に岡山県岡山種畜場移転落成式が挙行された。

  岡山県酪農大会

 第1回乳牛共進会の開期中,岡山種畜場で5月10日,岡山県酪農協会主催の酪農大会が開催された。たまたま朝から雨が降り,酪農民の出足は鈍かったが,200名余の参集があった。決議事項は次のとおりであった。
 1 飼料検査制度の確立を要望す。(説明文省略,以下同じ)
 2 酪農奨励機構を一元的となし,且つ強化されたい。
 3 酪農業に対して優先的に融資の途を講ぜられたい。
 4 自給飼料対策を具体的且強力に樹立されたい。
 5 酪農税を適正化されたい。
 6 野草の改良利用の途を講ぜられたい。
  昭和25年5月20日 岡山県酪農大会
    代表者 岡山県酪農協会長 奥山吉備男
 農林大臣 森 幸太郎 殿

   決議
 1.急速に酪農対策協議会を結成されたい。
   去る4月1日以降,牛乳,乳製品及び飼料の統制が撤廃され,酪農業の経営に及ぼす影響は極めて大きく,既に乳価も値下げされた向もあり,将来斯行振興の為には関係各所相寄り協議すべき点があるので,県に於て酪農協議会を組織し,これが審議機関と致され,その安定と発展を期せられたい。
 1.酪農の指導機関の設置と技術指導員の充足につき考慮されたい。(説明文省略以下同じ)
 1.人工授精所の拡充強化を図られたい。
 1.牛乳県営検査を実施相成りたい。
 1.酪農業に対して優先的に融資の途を講ぜられたい。
 1.自給飼料対策を具体的且強力に樹立されたい。
 1.酪農課税を適正化されたい。
 1.野草の改良利用の途を講ぜられたい。
  昭和25年5月20日 岡山県酪農協会
    代表者 岡山県酪農協会長 奥山吉備男
 岡山県知事 西岡廣吉殿

  2 第2期(昭和26〜29年)「復興期」

(1)概況

 全国的には,第2期は食糧事情の回復と,朝鮮動乱の外需による鉱工業生産の躍進した時代であった。農業の畜産化,酪農化が進められ,有畜農家創設時代であった。従って,零細規模ながら酪農世帯が急速に広まった時代でもあった。
 またこの4年間は,畜産関係の諸制度が整備された時期でもあった。飼料需給安定法(昭和27年法律第356号),有畜農家創設特別措置法(昭和28年法律第260号),酪農振興会(昭和29年法律第182号)など重要な法律が相ついで制定公布された。戦後において農民的酪農化の出発点となったのが有畜農家創設事業である。昭和26年度から始められたこの事業は,同28年(1953)に法制化された。これにより従来ほとんど顧りみられなかった畜産に,制度融資と利子補給の道が開かれた。この事業は,昭和27年(1952)から35年(1960)までの9年間に,137億円に上る低利融資によって,18万頭の乳牛が導入された。昭和28年度からはジャージー種乳牛の大量輸入と,酪農による後進地開発を目的とした集約酪農地域建設事業が始められた。この事業は生乳取引の合理化,契約の文書化,紛争の行政斡旋を柱としており,昭和29年(1954)には,酪農振興法として法制化され,今日の酪農に関する基本法となっている。この外,@MSA(日米相互防衛援助協定)援助と食糧輸入依存主義による農政の再編がなされたこと(現在の農業問題の初発),A昭和27年(1952)オーストラリアのバター輸入と,29〜30年(1954−55)にかけて,余剰生産状態にあった先進酪農国の圧力が,わが国の酪農を圧迫し初め,「酪農不況」を現出させたこと,B飼料需給安定法(28年施行法律第356号)により輸入飼料の需給調整と飼料資本の発展を促進すること,C酪農振興法の成立(29年)により「一集約酪農地域一会社」という上からの強力な指導は,乳業の市場再編成と系列化を進めた。

(2)考える農業

 昭和26年(1951)4月,第2代公選知事として,三木行治が当選した。三木知事の施策には,工業県への躍進を目ざすものが多かったが,一方では,農業先進県としての伝統をもつ岡山県の農業に「科学する農業」,「考える農業」の推進が叫ばれ,とくに県北部の酪農の振興に熱意を燃やした。昭和27年(1952)12月30日に各部長を知事公舎に集め,「岡山県酪農振興計画」の骨子を練り,県政の重点施策として酪農を推進することとした。また,昭和28年(1953)10月10日には,当時農林省畜産局長であった大坪藤市を,熊本からの帰途を待ち受けてセスナ機に乗せ,美作地方の現地上空に飛び,機上からつぶさに説明し,集約酪農地域の指定を請願した。
 昭和30年(1955)8月16日,蒜山での飼料作物研修会には,牧草地にキャンプして関係者を励ますなど,率先陣頭に立って今日の津山市周辺および蒜山の酪農発展の基礎を築いた。これには,国会や県議会関係の協力援助も大きかったことはいうまでもない。

(3)急速に伸展する酪農

 終戦後,酪農は国民の栄養確保の点から認識が高まり,県も乳幼児,病弱者の食糧のため保護奨励したこともあって,本県の酪農は急速に伸展した。昭和29年(1954)にはその飼養頭数も5,000頭に近づき,戦前のそれに回復した。産乳量も1万5,000トンを超えるまでになった。本県の乳牛はほとんどホルスタイン種系に属し,その能力資質はよく改良されていた。北部の美作一帯は酪農に好適な立地条件を有し,和牛より乳牛に乗り替えるものが続出し,この数年に約1,000頭を数えるに至った。県内の酪農経営形態は地区によりそれぞれ特徴があり,全国の酪農経営形態の縮図とも見ることができる状態であった。

  乳牛の分布

 昭和27年(1952)の分布状況は表1−1−18のとおりである。種類は大部分ホルスタイン系種で,血統登録牛は約1,200頭,高等登録牛は285頭であった。系種牛についても岡山県酪農協会が保留牛制度を設けて,高能力牛を保留していたので全県的に能力は向上していた。

  生乳の需給

 昭和27年度の生乳の需給状況は表1−1−19のとおりである。市乳原料は全体の33.7パーセントを占めており,夏季は市乳の伸びが著しく,冬場には減退するので,原料乳として仕向けられていた。年間,県内から4万5,172石(74.8パーセント)が生産され,県外から1万5,253石(25.2パーセント)が流入していた。

  牛乳の消費

 当時余剰乳はバター原料に仕向けられていた。従って市乳が伸びるとバターが減って,乳業界は好況であった。夏期6月から8月までの3カ月間における県下82カ所の市乳の処理場から市乳として処理されたものは,昭和25年度は,1,500石,翌26年度は,2,281石,昭和27年度は,6,443石であった。このころ外国からバターが大量に輸入され,乳の価格の値下げ問題が起こった。

  飼料

 昭和25年(1950)4月1日から飼料配給規則が廃止され,飼料需給調整法が実施されることになったが,大豆粕だけが統制の対象となることとなった。また飼料の需給調整を図り,飼料の確保と価格安定をねらいとする「飼料需給安定法」が昭和27年(1952)12月29日に制定された。このころから農家は飼料の品質に関心をもち,粗飼料の認識を高めていった。購入飼料が暴騰しても,一向乳価は改善されず,かえって海外から安い乳製品が輸入されるのではないか,そのためによい牛乳を多く,安く生産しなければならない,と生産費の低減に目を向け始めた。自給飼料を確保するために,飼料作物の栽培,飼料圃の輪作利用,草地の改良,サイロの建設等,にわかに自給飼料問題に関心が高まった。

  牧野と草生改良

 昭和25年(1950)5月に新牧野法が制定公布された。県中北部の市町村では,牧野管理規程を設けて牧野の改良に努めた。昭和27年(1952)11月知事の認可した管理牧野は表1−1−20のとおりであった。国土保全の見地から改良を要する牧野として,知事が指示した保護牧野10カ所(表1−1−21)等に対しては,土壌改良,飼肥料木植栽等の改良事業を実施するようになった。その後はこれら基礎条件が整ったところから,優良草を導入し,草種を改良するとともに,牧野施設を改善していった。

 昭和前期までは草は雑草という観念が強く,これを栽培して飼料として利用する意識はなかなかめばえてこなかった。県は昭和22年(1947)ごろから草生改良事業をとり上げ,指導指定地を各地に設けて啓蒙宣伝した結果,各地でこの事業が勃興した。

  サイロ設置

 当時サイロは数少く珍しいものであった。終戦直後は三和土で造っていたが,このころはコンクリートの塔型で,地上式または地下式の,4トン容の小さなものが多かった。県は昭和27年度にサイロ設置補助要綱に基づき135基を助成したが,1,000基以上の申込みがあった。

(4)行政の座についた酪農

  有畜農家創設事業

 昭和26年(1951)10月20日,農林省畜産局は「有畜農家創設事業計画」について次のような発表をした。
 1 10カ年間に127万戸の有畜化を図る。(第1次計画として昭和27〜29年(1952−54)に50万戸を有畜化する。又第2次以降は経済自立計画に基く家畜増殖計画の実績を参酌して計画)
 2 乳牛,役肉用牛,馬,緬羊,山羊,豚の導入資金70パーセントを融資。
 3 乳牛,役肉用牛,馬,緬羊については,金利の5分相当を補給。
 4 償還期間は1カ年の据置期間を含み5カ年,金利は2分5厘。
 その後,昭和26年(1951)11月26日に衆議院,11月28日に参議院の第13国会で「無畜農家解消に関する決議案」を可決した。県は,昭和27年(1952)5月7日「岡山県有畜農家創設事業要綱」(県告示第387号)を公示し,昭和27年度から同35年度までの9カ年を乳牛9,216頭(内ジャージー種649頭),役肉用牛5,000頭,緬羊1,954頭,馬10頭を導入,6億8,309万円を融資した。この事業は当初,昭和36年度まで計画していたが,同年11月をもって農業近代化資金助成法の成立とともに廃止した。
 この有畜農家創設事業は,従来農業の中にあって非常にあいまいな性格で合った畜産に対し,しっかりした位置づけと,産業としての基盤を築くために効果があった。すなわち,従来の畜産は,耕種農業に付随したもので,家畜自体の利益の追求はなく,ふん尿や役利用だけでもよいとされていた。しかし,有畜農業の考え方は畜産の分野でも生産をあげなければならない,それは交換経済的なものであろうと,自給経済的なものであろうと,より多くの利益をもたらすものでなければならない。例えば大家畜を役畜またはふん畜として飼っている場合とか,小遣い銭かせぎに小家畜を飼っているときは有畜農業とは言わない。有畜農業とは,地力を増進し,主要な基礎飼料を自給し,土地の集約的な利用と,労働の合理的な配分の下に,畜産物は自家の経済や生活に有機的に結び付き,農業経営の総合生産力の向上を図るものという認識に立っていた。

  岡山県酪農振興計画(1万頭計画)

 昭和28年(1953)2月,岡山県酪農振興計画が樹立された。5年後に乳牛1万頭,産乳量年14万7,500石を生産しようとするもので,酪農はあくまで農業経営の中に溶け込んだ形で発達させることを根幹とした。またこの計画を達成するため酪農振興に役立つ諸般の施策を集中的に実施することとした。

  蒜山地区酪農振興計画

 この計画は,岡山県酪農振興計画の一環として考えられることが当然であったが,本地区は特殊地帯であり,とくに積雪寒冷地帯の指定,大山出雲特定地域総合開発計画や岡山県総合開発計画をも勘案して,計画上の連絡を保ち,総合的に特殊に計画を必要とするので,とくに蒜山地区として別途の酪農振興計画を昭和28年(1953)6月に樹立した。
 この地域は広大な牧野を有しながら,過去にはほとど乳牛導入の歴史はなく,わずかに終戦後開拓地に3〜4頭の乳牛が導入されたのみであり,乳牛については全くの処女地であった。当地の気象条件は東北地方と酷似し,6,000町歩に及ぶ広大な放牧採草地を有し,草生改良を行うことにより,乳牛の粗飼料を十分確保できるばかりでなく,畑作経営の改善により,自家生産飼料をも確保できるので,生産費の安い牛乳生産が可能である。このような考えに立って次のような計画をたてた。

 @ 早急に受入工場を設置して集乳を行なうこと。
 A 採草地の中1,000ヘクタールの土壌改良・草生改良を実施し,良質の牧草と草量の増産を図ること。
 B 放牧地の整備を行い,輪換放牧による飼料費の軽減を考慮すること。
 C サイロの設置,畜舎の改造に融資の導入を図ること(飼育戸数1,000戸,サイロ,2,000基目標)。
 D 酪農技術の指導を行なうとともに,中心指導者を酪農講習所に派遣し,教育を受けさせる。
 E 畑作の改善とともに飼料作物の輪作栽培を行なわしめる(200ヘクタールを目標)。このために農業試験場高冷地試験地を活用する。
 F 初年度において乳牛300頭以上の集団導入を行うこと。これに必要な資金については,有畜農家創設事業その他から融資を行なうこと。
 G 家畜保健衛生所を高度に活用し,酪農技術者を1〜2名増置すること。
 H 家畜保健衛生所に,乳用牛の種雄牛を繋養するとともに,その人工授精業務を強化すること。
 I 集団導入のため,政府の集約酪農地域の指定をうけ,貸付牛の導入を図ること。

 これらを骨子とし,昭和28年度に300頭のジャージー種を,昭和32年度には2,000頭に増殖する計画をした。

(5)ジャージー種の導入

 このころ美作地方の酪農は,有利な立地条件によって急速に発達しつつあった。当初は生乳の輸送に至便な平坦地に酪農が発達したが,草資源を求めて次第に山地に伸びていった。真庭郡の北部の蒜山にジャージー種が導入されたのは昭和29年(1954)からである。既述のとおり蒜山地区酪農振興計画が立案され,また,昭和28年(1953)3月10日の県議会では,県北(美作地方)の酪農振興を重点とした昭和28年度特別会計を可決し,同年9月22日の臨時県議会では「今後集約的に乳牛を導入するためには,大幅な国庫助成が必要である。このために酪農経済圏に指定をうけるため,津山市外美作5郡を,高度集約酪農地区に指定されたい旨」陳情書を可決した。
 当時国では畜産振興の中で,10年後に乳牛100万頭,生乳1,000万石にする計画があった。この実現のためには,当時飼養されていたホルスタイン種だけでは,この増殖計画の達成は不可能とされていた。そこで,わが国の酪農振興のために,草資源を活用したいわゆる草地酪農の振興を図るということで,ジャージー種が選ばれ,適地に導入の計画が樹立され,昭和28年度から輸入が始められた。この時宜を選び,本県は県民一体となり,ジャージー種導入のため国に強く働きかけた。昭和29年(1954)1月22日農林省は,同年度(第2年度)に,新規にジャージー種牛を導入する地区を北海道,青森,静岡,岡山の4地区に決定し,岡山県に260頭(その後10頭追加)を割り当てた。
 国は昭和28年(1953)から3カ年間をパイロットプランとして直接国が購買し,北海道(557頭),青森県(585頭),岩手県(542頭),群馬県(593頭),山梨県(322頭),長野県(317頭),静岡県(564頭),岡山県(588頭),宮崎県(604頭)計4,672頭を,アメリカ,ニュージーランド,オーストラリアから輸入した。その後の3カ年は,世界銀行の借款によって,農地開発機械公団がこれを輸入し,国の指定地区に7,776頭を売却した。本県には国有貸付牛として輸入されたものは,588頭,世銀融資をうけたものは691頭,計1,279頭が輸入された。
(6)人工授精による乳牛の改良
 本県の乳牛の人工授精は,昭和18年(1943)に岡山種畜場で実用化され,その後昭和26年(1951)までは県内を,直接出張授精していた。昭和27年度から県南部家畜保健衛生所5カ所に精液の配布をして,センターの業務を始めた。また県北は津山畜産農場が担当した。昭和31年(1958)に岡山県酪農試験場が誕生して,メインセンターとなり,県内22のサブセンターに定期配布を行った。
(7)酪農組合の誕生
 水島,中備および御津中部の3つの酪農業協同組合が表1−1−23のように創立された。

(8)おもな行事

 第1回全日本ホルスタイン共進会は,昭和26年(1951)3月24〜27日神奈川県平塚市で開催され,本県から玉津村(現邑久町)川野伸二所有のレゼット・スカイオク・カーネーション号,笠岡町(現笠岡市)坂本節夫所有のオート・ポッシュ・カナリー・ロンダ号の2頭が出品され,3等賞と4等を受賞した。
 第1回岡山県乳質改善共励会は,岡山県酪農協会が主催し,県および酪農工場が後援して,昭和27年(1952)から3年間継続して開催された。この共励会は,農林省の主催する中央共励会と,地方共励会と2つに分けて,夏季の乳質の低下する季節をねらって開始されたもので,審査は,@アルコール検査,A脂肪率検査,B酸度検査,C細菌検査について,参加団体ごとに実施した。
 天皇家第4皇女順宮厚子内親王は,元岡山藩主池田宣政の長男,池田隆政とかねて婚約中であったが,松平康昌の仲人により,昭和27年(1952)10月10日,ご結婚なされた。このお祝に岡山県は乳牛1頭(静岡県丹那石川繁太郎生産のチュンキー・レークサイド・ドンポール・ホム号)を贈呈した。
 池田隆政は,昭和23年(1948)から岡山市上伊福別所,岡山種畜跡地で池田牧場を経営していたが,後に池田動物園を経営するとともに,烏城養鶏場を併せ経営し,本県の養鶏のみならず,畜産全般において指導されている。

  3 第3期,前・中期(昭和30〜40年)「多頭飼育と経営の近代化期」

 第3期は農業の激動期,経済の「高度成長」の時期である。酪農は階層分化が進行し,しかも分解水準の不断の上昇の中で居残れる者が飼育規模を拡大し,多頭化するという形の発展への転換期であった。戦後,有畜農家創設時代の長い期間を過ぎ,昭和34年(1956)ごろから集約酪農地域の建設等「多頭飼育」,「主産地形成」を志向するようになる。また昭和36年(1961)以降の中期においては,農業基本法の下に,農業構造改善,経営の近代化が進められ,その結果,零細規模の非能率の農家は整理され,他産業の所得と肩を並べるまでに経営拡大は推進され,地域の合理化が進められ,乳牛の頭数は,酪農家の戸数とともに約4倍に増加し飛躍的な発展を遂げるに至った。
 しかし昭和39年(1964)ごろから,全国的傾向と同じく,この伸びは停滞し,かえって減少の傾向を示した。特にこの期間の特徴としては,酪農は3〜4年のサイクルで不況を迎えた。また乳製品の輸入問題,飼料問題,乳価問題等の困難な問題に対処しながら,基調としては着実に伸びた時代でもあった。

(1)県内に普及する酪農

 有畜農家創設事業による乳牛の導入に引き続き,高度集約酪農地域の指定によるジャージー種の大量導入,美作,備中,旭東の3集約酪農地域の設定による集中的な酪農振興施策,例えば国有貸付事業,ジャージー牛経済能力検定,酪農専任指導員の設置補助,簡易集乳所設置補助,牛乳生産費調査,ジャージー互助会に対する補助,酪農計画指導,乳牛産乳能力の検定事業,酪農経営改善対策等は,大きな反響を呼び,昭和30年(1955)の乳牛頭数6,840頭は,昭和40年(1965)には,のそ4倍の2万7,300頭にまで増大した。のこ間飼養戸数は2倍の8,860戸,生乳生産量は5倍の7万6,977トンと,飛躍的な発展を遂げた。
 この10年間,定率的な増殖があったわけではなく,年により一張一施をくり返しながら伸長をとげたのであるが,その最も大きな原因は乳価であった。

(2)乳価

 生乳の生産利用の動向は別表のとおりである。飲用向け原料乳は,全体の36−56パーセントていどであり,市乳が伸びてこの割合の大きくなった時が乳業界は好況であった。冷夏であったり,不況であったりすると,牛乳・乳製品の売上げが落ち乳業界が不況となり,生乳価格の引き下げとなり,農家にしわ寄せされた。当時は約3年を周期に不況が到来していた。

 当時,県内に5大乳業メーカーが操業していた。すなわち笠岡市絵師に明治乳業株式会社笠岡工場が備中集約酪農地域の基幹工場として操業し,オハヨー乳業が旭東集約酪農地域,北酪がクローバー乳業株式会社と提携して美作集約酪農地帯の基幹工場となっていた。この3社と,岡山市近郊と南部児島地区を集乳範囲として国分商店が操業し,津山市にあって美作一帯の生乳を集めて東洋乳業が操業していた。この5大乳業メーカーの乳価の推移をみると,表1−1−26のとおりである。

 昭和30年(1955)には,乳価が1升60円から40円に暴落し,生産者と乳業者と対決したが,翌31年(1956)には神武景気により消費が伸び,53円にまで上昇した。昭和33年(1958)から乳価好調のため生産が伸び,過剰気味となり,乳製品滞貨による夏乳価の引下げがあり,第T 次酪農危機が到来した。その後昭和35年(1960)に至り需要が大幅に増大し,乳製品の緊急輸入が行われたが,昭和37年(1962)には乳製品の滞貨が急増し,畜産振興事業団が買い入れ需給の調整に努めた。ところが昭和39年(1964)には牛乳,乳製品の価格が大幅値上りする等,不況と好況がくり返された。国は生乳の消費を促進するため,学校給食事業を法制化(牛乳の学校給食要綱,酪農振興法改正)した。
 昭和33年(1958)4月「酪農振興基金法」を制定,酪農振興基金を設立し,乳業者と生乳生産者との間の取引関係の改善,生乳および乳製品の価格の安定,乳製品等の需給の調整,乳業者および生乳生産者の経営の維持安定に要する資金について債務を保証することとなった。その後,昭和36年(1961)に「畜産物の価格安定等に関する法律(畜安法と略称)」が公布され,前記の酪農振興基金は発展的に解消し,同年12月畜産振興事業団が設立された。国はこの法律により,畜産物価格審議を経て,原料乳の安定基準価格,指定乳製品の安定上位価格と安定下位価格を定め,畜産振興事業団による買入れ,売渡し,あるいは調整保管等により,牛乳・乳製品の価格変動を調整することにした。

  生乳需給調整

 例年秋から春にかけては,消費が減退傾向になるが,とくに32年(1957)秋から33年(1958)の国民経済の悪化に加えて大缶煉乳用砂糖の免税撤廃などの悪条件が重なり,その上初春来の多雨に禍いされて需要減退が著しく,乳製品の異常な滞貨となり,原料乳価の引下げ問題が起きた。これに対して県は,乳価値下げによる生産意欲の減退を防止し,酪農の健全な振興を計るために乳価安定対策を進めた。先ず全国に先がけて「乳価安定対策要綱」次いで「第2次牛乳の消費拡大要綱」を定め,乳価措置の斡旋をする一方,“牛乳を飲む月間”を設け,「ミス牛乳」を募集するなど,消費拡大の大宣伝を行なった。その結果夏においては,1.875キロ(1升)当たり47円の乳価を維持したが,9月以降メーカー側は一方的に42円に引下げを行なった。そこで県は,昭和34年(1959)1月に「岡山方式」と呼ばれた「岡山県生乳需給調整並びに乳価安定臨時措置要綱」を定めた。生産と消費のバランスをとるため,酪農団体と県内乳業メーカーの協力を得て特別会計を設定して,生乳の買入れ,売渡しを行ない,乳価および需給の調整をして,その目的を果たした。同年度の乳価は表1−1−27のとおり推移したが,なお,その要綱および生乳需給の推移は次のとおりであった。

   岡山県生乳需給調整並びに乳価安定臨時措置要綱(昭和34年4月1日 岡山県)

 「趣旨」
 第1条 県内に於ける生乳の需給の調整と乳価の安定を図るため,必要がある時は,知事は,この要綱の定めるところにより生乳の買入及び売渡を行うものとする。
 「方法」
 第2条 前条の規定により知事が行う生乳の買入れ及び売渡は,買入れにあっては別に指定する生乳生産者の組合又は団体と,売渡にあっては,乳業者とそれぞれ個別に契約を締結して行うものとする。
 第3条 買入れの期間,数量及び価格並びに売渡の数量及び価格については,その都度定めるものとする。
 「特別会計の設置」
 第4条 知事は,その収支を明かにするため,生乳の買入及び売渡に関する特別会計を設けるものとする。
 「その他」
 第5条 この要綱に定めるもののほか,必要な事項は,別に定める。

  牛乳の消費拡大運動

 生乳需給調整を実施する外に,昭和33年(1958)7月15日から1カ月間,牛乳消費月間と定め,宣伝カーによる巡回放送,美容院,歯科医,バス内の消費宣伝,ミス牛乳の選抜,10円牛乳の集団飲用の促進等の猛運動を展開した。その結果,日量150石の消費量が,220石に増えた。とくに津山市においては昭和29年(1954)12月1日から「牛乳全戸愛用期間」が催され,市民の積極的な協力が得られた。
 昭和37年(1962)9月20日から10月20日までを牛乳消費月間とし,牛乳の消費運動を展開した。この間ミス牛乳のパレードや,食生活改善運動を行った。とくにポスター1万枚を県下の旅館,理髪店,料理店に配布して好評であった。

   合乳取引

 生乳取引は,従来生産者と,乳業者との個人取引であったが,酪農振興法の公布により,契約の文書化が義務づけられた。その例を岡山県北部酪農業協同組合によると次のようである。

 「北酪合乳取引要綱」(昭和31年6月24日)

 岡山県北部酪農業協同組合(以下北酪と略称す)とその組合員との合乳取引はこの要綱によるものとする。
 1 北酪及び組合は,共に協力して取り引きを円滑に行い,以て組合員組織の強化と,酪農振興並びに工場経営の合理化に寄与することを目的とする。
 2 組合は,組合員の生産した生乳の全量を専属利用契約に基き取纏め合乳として北酪に出荷し,委託販売するものとする。
 3 組合員の集乳場所は,北酪の指示した集乳所とする。
 4 北酪は組合の生乳代金を,合乳の乳脂率,並びに等級により精算し,組合に支払うものとする。乳代金の支払は専属利用契約に基き,組合員の所属する農業協同組合に送金する。
 5 生乳の受乳検査は,北酪に於ては合乳受乳のとき実施するものとする。
 6 組合員の脂肪率は当分の間,合乳の脂肪率を検査する当日,北酪に於て実施する。
 7 北酪は合乳の取引組合に対して,合乳取引奨励金として,牛乳1升(500匁)につき1円の割で計算した金額を,乳代と共に支払うものとする。
 8 組合員が北酪の購販事業,指導事業又は乳牛導入資金を利用する場合,原則として組合は組合員の希望を取纏め,一括して北酪に申し込みするものとし,これ等の代金等の決済は北酪が組合に支払う代金精算の際,一括精算するものとする。
 9 右の外,必要なる事項は,北酪と組合が協議の上定めるものとする。
 (附則)
 10 合乳取引以前の組合員の北酪に対する負債は,会議の上速かに組合に支払う生乳代其の他により決済するものとする。この際北酪は,個人別明細書を精算書に添付するものとする。
 合乳取引制は,この時代において先駆者的なものであった。それは,取引の単純化,合理化に役立つだけではなく,出荷者グループ間のコミュニケーションを強くした。また合乳単位(集乳所,酪農組合)は資金の借入れや協力によって,地域結合の度合いを深め,ひいては北酪全体の連帯感を高めるために効果があった。北酪では,これに対して合乳奨励金を集乳量に応じて交付し,組織の維持,強化に努めたのである。

 乳価の決定(北酪の場合,昭和31年ごろ)

  乳価審議委員会規程

 第1条 この委員会は,北酪とその組合員との間に於ける生乳販売専属利用に関し,その適正なる運用を期し,系統事業の発展と,事業体制の確立に寄与するため,特にその乳価を定めることを目的とする。
 第2条 この委員会は,前条の目的を達成するために,次の業務を行う。
  1 適正なる乳価の決定
  2 乳価に関する情報,資料の蒐集整備
  3 その他,この委員会の目的を達成するため必要な事項
 第3条 この委員会は,北酪組合長が必要すると認めたときは,その都度召集する外,各四半期毎に開催する。
 第4条 この委員会の委員は27名とし,下の区分により理事会の議を経て,北酪組合長が委嘱する。
  1 関係行政機関代表 2名
  1 関係金融機関代表 2名
  1 理事       15名
  1 組合員代表(酪農組合長)6名
  1 学識経験者    2名
 第5条 委員の任期は1カ年とする。
 第6条 委員は委員長1名を互選する。委員長は委員会を統轄し,且つ委員会を代表する。
 第7条 この委員会の事務局は北酪内に置く。
  附則 (省略)
 昭和31年4月〜6月の乳価を例示すると,

(3)集約酪農地域の設定

 昭和29年(1954)6月14日に制定された「酪農振興法」の集約酪農地域に関する規定は,本法の根幹をなすもので,わが国酪農政策の1つの革新的方向を示し,乳牛を適地に集団的に飼い,牛乳の生産から処理加工までを含め,経済性の高い酪農団地を建設することを目的としたものである。農林大臣は,都道府県知事の申請により,集約酪農地域を指定し,国は都道府県知事の酪農振興計画および市町村長の酪農経営改善計画の実施を援助することとし,また,集約酪農地域内における集乳施設,または乳業施設の新設,拡張について制約を加え,さらに牛乳取引,中央生乳取引調停審議会,酪農審議会について規定した。

  美作集約酪農地域(昭和30年12月10日)

 酪農振興会の公布により,昭和30年(1955)12月10日,美作地域が集約酪農地域の指定をうけた。この地域は津山市の外15カ町村で,ホルスタイン地区とジャージー地区に2つに分かれており,昭和35年度を目標に,ホルスタイン種を5,993頭,生乳1日122石,ジャージー種を2,000頭,生乳1日30石をそれぞれ生産する計画をたてた。このために,県は美作集約酪農地域振興対策室を作って,重点的に農家指導を行った。
 昭和31年(1956)9月21日,すでに指定をうけた1市15カ町村の外に,新たに2町を追加拡大した。さらに昭和34年(1959)3月16日,すでに指定をうけた1市17町村の外に,新たに11カ町を追加して地域を拡大し,その後,昭和41年(1966)に振興度の低い7町村を除外して,1市28町村となった。

  旭東集約酪農地域(昭和34年3月16日)

 この地域は,西大寺市(現岡山市)を中心に,1市13町村の範囲で,本県酪農先進地の一つを含む地域である。昭和38年度を目標に,乳牛(ホルスタイン種)1,777頭を6,500頭に増殖し,生乳年間3,094トンを1万3,419トンと約4.3倍に増す計画をした。その後,昭和36〜40年度に延長計画をたてた。
 当地区の昭和45年度の実績は,飼育戸数が延長計画をたてた昭和0年度に比べると,1,382戸から830戸と60.1パーセントに減少したが,頭数は3,957頭から5,862頭に増殖した。この地域は生乳は,主として県南部地域の飲用向牛乳として消費されている。

  備中集約酪農地域(昭和32年9月24日)

 この地域は,笠岡市等4市を含む17町村を範囲とする酪農先進地と,全く後進地帯を含む地帯であって,ホルスタイン種4,252頭,生乳年間5,967トンを,昭和37年(1962)には乳牛6,000頭,生乳9,537トンに増す計画を樹立した。この地域の生乳は,笠岡市の明治乳業株式会社笠岡工場で加工された。昭和45年(1970)におけるこの地域の実績は,飼養戸数2,489戸から1,816戸に減少し,乳牛は7,525頭から,9,374頭に増加し,生乳生産も順調に伸びた。

(4)経営近代化のための融資

   畜産経営拡大資金制度

 農業基本法により,農業の選択的拡大が叫ばれ,今後の発展が大いに期待されている畜産に対応して,農業構造改善を推進するためには,現在の零細な家畜飼養から脱却した,生産性の高い自立経営農家を育成する必要がある。このために畜産振興事業の充実と相まって,個々の経営について家畜飼養の規模の拡大,近代的な施設の整備など,固定資本装備の高度化を推し進めることが急務となった。しかし,このためには多額の資金を要するので,農林漁業経営構造改善資金融通制度の一環として,畜産経営拡大資金制度が設けられた。農林漁業金融公庫は,農業者に対して長期低利の貸付けを行い,畜産の近代化を助長した。酪農では,集約酪農地域,または酪農経営改善計画を樹立している市町村が対象となった。この資金は,乳牛の購入,施設の改良,農機具の購入に当てられ,年利6分,12年以内の償還であった。

(5)指導機関の設立

   岡山県酪農試験場

 酪農が有畜農家時代を脱却して,酪農業として農家経営の主柱となるためには,新しい技術の開発が必要であり,これの指導普及機関が必要となった。時代要請に応じて昭和31年(1956)4月1日岡山県岡山種畜場は,津山市大田の岡山県津山畜産農場に乳牛その他酪農関係の施設を移し,ここで岡山県酪農試験場として新しく発足した。
   岡山県酪農試験場蒜山分場

 蒜山地域にジャージー種が導入され酪農が始められたので,これを指導するめために,地元の強い要望にこたえて,県は真庭郡川上村茅部に,昭和32年(1956)4月,岡山県酪農試験場蒜山分場を設置した。総面積20ヘクタール,その内耕地4ヘクタール,建物敷地1ヘクタール,放牧地11ヘクタール,山林4ヘクタールであった。建物は12棟で303坪であった。この分場は,昭和37年(1962)3月末日で閉鎖し,岡山県立酪農大学校に施設業務を引き継いだ。
   岡山県立酪農大学校

 酪農に関する知識,技術を指導し,優秀な酪農経営者を養成するため,県は,昭和36年(1961)12月1日,津山市大田の岡山県酪農試験場に岡山県立酪農大学校を設立し,惣津律士が初代校長に就任した。翌37年(1962)4月,真庭郡川上村の校舎に移り,県酪農試験場蒜山分場を吸収した。

   財団法人中国四国酪農大学校

 酪農経営の近代化に即応し,酪農全般にわたる科学的知識と,高度な技術を身につけ,企業的実践能力を持った優れた酪農自営者を養成するため,中国,四国各県並びに兵庫県をもって構成する財団法人を組織し,岡山県酪農試験場の施設を譲り受け,昭和40年(1965)11月,中国四国酪農大学校を設立した。修業期間は2カ年で,この内1年間を校外研修とするもので,中国四国を中心に,毎年40名の学生を募集している。 

(6)牛乳の学校給食

 昭和29年(1954)の牛乳の需給不均衡による酪農不況を契機として,牛乳の需給調整対策の一環として,国産の牛乳乳製品による学校給食が取り上げられた。昭和30年(1955),真庭郡湯原町二川村農協(組合長 東郷留吉)は,ジャージー牛乳の飲用を普及するため,高温殺菌処理場を設け,地元民に販売するとともに,学童に給食した。昭和33年(1958)1月から「牛乳,乳製品の需給調整対策」に基き,予算措置により,輸入脱脂粉乳による学校給食の一部を国産牛乳及び乳製品に置きかえる措置を講じたところ,需給調整上多大の効果が上ったので,昭和34年(1959)4月,「酪農振興法」を改正,同法に基づいて国産牛乳乳製品による学校給食が促進された。

(7)酪農組合の誕生

   旭東酪農業農業協同組合

 旭東地区における乳牛の歴史は古く,その変遷とともに組合も変容した。明治40年(1907)邑久郡畜産組合が設立され,酪農事業が推進された。また昭和6年(1931)には煉乳工場を経営した。昭和12年(1937)酪農販売購買利用組合を経て,昭和23年(1948),邑久郡酪農畜産販売農業協同組合連合会となり,昭和30年(1955)3月1日旭東酪農業協同組合として発足した。

   蒜山酪農農業協同組合

 蒜山地区にジャージー種が導入されたため,川上,八束両村のジャージー飼養農家によって,昭和31年(1956)1月16日に組合が結成され,ジャージー牛乳の処理販売,指導事業,人工授精業務を実施している。ホクラク農業協同組合に団体加入している。

   岡山県酪農農業協同組合連合会

 県内酪農団体は,恒久的酪農振興のため,一貫した行政施策と自主擁護体制確立のために,酪農振興法改正を契機として,2畜連,8酪農協が昭和34年(1959)1月28日,岡山県酪農農業協同組合連合会(県酪連)を結成した。

(8)大規模草地改良事業の開始

 昭和36年度から,美作地域大規模草地改良事業が蒜山地域で開始された。ジャージー種は,運動性に富み,草の利用性が高いので,川上,八束両村は,国の大規模草地改良事業を導入して,放牧場の造成を始めた。

(9)おもな行事

   全日本ホルスタイン共進会

 第2回共進会が,昭和31年(1956)3月23日から27日まで静岡県三島市で開催され,本県から邑久町小林鹿太郎所有のチーチュ・インペリアル・スプリング・チュンキー号,裳掛村(現邑久町)内田生治所有のヘンドリック・バートン・グレース・マタドァー号,牛窓町阿部昇所有のオームスビー・エスエムエス・オク・ボンファー号の3頭が出場した。
 第3回共進会は,昭和36年(1961)3月23日から27日まで長野県松本市で開催され,本県から奈義町有元孝子所有のフライド・コバーク・デコール・ウォーカー号,邑久町蟻正熊治所有のベッス・コバーク・ジェマイママノーワ号,西大寺市(現岡山市)小林浩所有のヘンドリック・ボシュロ・ドンマタドァー号,落合町岩本一男所有のボーリン・ガバナー・ミドリ・ウォーカー号,落合町井手岩章所有のウイリアム・ウォーカー・プロスペクト号が出場した。

   酪農文化祭

 県は昭和34年(1959)10月20日から22日までの間,津山市において酪農文化祭を盛大に挙行した。10月20日午前11時,岡山県酪農試験場において開会式が開催された。津山市小田中の家畜市場では,第15回県畜産共進会の乳牛の部が挙行され,また津山市第三小学校では,酪農家の発表大会が催され,津山市では,ミス牛乳と準ミス牛乳の市中パレードが催され,津山市南小学校では素人のど自慢,日本舞踊大会などが催された。

   岡山県酪農民大会

 昭和37年(1962)3月25日,岡山市北方の吉備高校講堂に,岡山県酪農農業協同組合連合会の音頭により,県下の酪農家約2,800人が集まって,生産費を償う生産者乳価の実現,生乳共販体制の強化などを関係方面に要求した。要求項目は次の通りであった。

 第1 生産費並びに所得を償う生産者乳価確保に関する件  
@ 畜安法に基づく昭和37年度の生乳安定基準価格(指定乳製品の原料乳の最低価格)は,法第3条第4項に定める「原料乳の再生産を確保することを旨とする」という法の建前に立脚,その算定方式は「生産費,所得補償方式」による農家手取りの確保を期する。さらに畜産審議会には,酪農民代表を増員すると共に,会議を公開すること。
  A 前時代的な生乳取引の現況に鑑み,生産者の利用獲得を目的とする新しい形態の実現に,国会,政府は強力な施策を講ずること。
  B 国内牛乳・乳製品の需給調整のための輸入は,酪農生産者団体の同意を得るためにあらざれば,政府はこれを実施しないこと。
 第2 酪農経営の近代化対策に関する件
  @ 高度な生産性確保のための設備資金に対し,財政投融資を大幅に増加すること。
  A 農業近代化資金の増額と共に,酪農振興の実情と需要に充分そい得るよう,酪農事情に対する資金枠を大幅に増大し,併せて金利の引下げ。償還期限の長期化を図ること。
  B 強力な流通秩序と,機構の改善措置を具体化すること。
 第3 酪農経営安定のための適切な飼料政策確立に関する件
  @ 政府所有の大麦,裸麦を飼料用として低廉な価格で,実需農民団体に放出すること。
  A  輸入飼料の枠の増大,自動承認制による飼料用マイロの輸入増加,さらに専管フスマの国内増産体制の整備を速やかに講ずること。
  B 流通飼料価格は,常に畜安法に基づく生乳安定基準価格設定の要因となる流通価格以下とすること。
 第4 生乳販売体制の強化に関する件
  @ 単位農協は従来の一切の取引関係を解消して集荷事業を始め,それ等関係の総てを県酪連に委任するため,名実ともに県酪連を通じて行うことを確認すること。
  A 一元集荷多元販売の原則に則り,県酪連において,事業を実施するため,各種の施設整備のための自己資本の増大を図ること。
  なお,これらの決議事項は,県酪連の地区代表役員を中心に設けた大会実行委員17名によって,関係方面や取引先乳業者に対し,強力な要求活動を行うこと。
   天皇皇后陛下,岡山県酪農試験場に行幸啓

 第16回国民体育大会が岡山県で開催されたさい,昭和37年(1962)10月22日,天皇皇后両陛下は津山市にある岡山県酪農試験場に行幸啓された。   
   皇太子殿下 岡山県酪農試験場および中国四国酪農大学校に行啓

 昭和40年(1965)8月3日,第15回日本海洋少年団全国大会に御出席のため来岡された皇太子殿下は,蒜山にある岡山県乳牛育成場,財団法人中国四国酪農大学校をご視察,ジャージー種を中心とした特異な酪農についてご質問があった。翌4日には,岡山県酪農試験場を視察され,ホルスタイン種やランドレースについてご質問があった。

 4 第3期,後期(昭和41年以降)「新酪農政策期 生産の動揺と需要の停滞」

 かっては糞畜であり,耕牛と言われ副業的酪農であった乳牛飼養が,「選択的拡大」の推進によって大型化し,専業化,企業化の途をたどりはじめた。軌道に乗れない経営規模の小さい農家や後継者のいない将来性のない農家,資力の少ない農家は脱落していった。とくに昭和40年(1965),46年(1971)ごろに脱落した農家が多かった。
 拡大された経営のねらいは,少頭数の集約的な経営から,多頭数の省力てきな経営に移行し,労働生産性を高めるために近代的な装備を必要とするようになった。即ち,頭数が増えるに従って,手搾りから搾乳器に替わり,搾乳器もバケット式からパイプライン式へと効率の高いものに変った。また乳が大量に生産されるに従って,品質問題がやかましくなり,生乳中の細菌の駆逐を重点とした乳質改善事業は全国的な運動となり,農家の生乳保存も水槽保存から簡易クーラーやバルククーラーへと移行した。
 また乳牛管理の省力化のためにバーンクリーナーが導入され,飼養の合理化と省力化のために,大型サイロが築かれ,酪農の装備はきらびやかなものとなった。
 このような経過の中にあって,昭和40年(1965)6月2日,加工原料乳生産者補給金等暫定措置法(法律112号)が公布され,酪農振興法,農地公団法と共に酪農3法と称されて,酪農の庇護は厚いものとなった。また国は自立経営農家の育成と飼養規模の拡大,生産性の向上をねらいとした酪農振興法による酪農近代化計画を示した。
 我が国の経済は昭和35年(1960)以来順調に成長し,昭和47年(1972)までは実質成長率10パーセント以上を示した。しかし昭和48年(1973)のオイルショックにより5パーセント以下に停滞し,畜産物の需要は減った。そこで今までの経営の拡大基調から,安定効率化に軌道修正を余儀なくされることになった。このころ世界的食糧不足となり,輸入飼料の価格の暴騰により,第2の畜産危機を迎え,にわかに食糧の自給論が高まった。その上,混住社会の中で続けられていた酪農経営は,基盤の狭いこともあって,飼養頭数が増加したために,糞尿の処理が困難となり,悪臭,水質汚濁の公害問題が起こるようになった。そこで農業見直し,複合経営の再検討が各分野から主張され,複合経営の一つのパターンとして,地域複合経営が提唱されるようになった。 

(1)県酪連に移った酪農

   生産の不安定

 この期の生産と需要は前・中期に比べて大幅な停滞をみせた。生産面をみると,昭和39年(1964)を境として様相が一変した。順調に伸びてきた戸数,頭数がこの年で減少に転じ,昭和40年(1965)には,前年対比伸び率が2けたも減少した。この年は戦後酪農の節を作った年でもあった。以来酪農家戸数は減少傾向をたどり,昭和46年(1971)にまた2ケタ台に減少を強めた。これに比し,乳牛頭数の方は少し年代がずれて,同年の4万5,400頭を頂点に減少傾向をみせた。
 同年から牛価が値上りし,屠殺するものが増え,乳牛の増殖は停滞した。その上に昭和48年(1973)のオイルショックの影響をうけ,酪農は第2の危機を迎えた。その後乳価の値上り,飼料価格の下落等に支えられて昭和51年から回復に向かい,53年(1978)に4万9,800頭と最高の頭数に達した。

 このように戸数が減少する傾向の中に,乳牛頭数が増え続けたために,1戸当り乳牛飼養頭数は,昭和40年(1965)に3.1頭であったものが,現在(昭和53年)には17.8頭と驚異的に拡大をみた。
 生乳の生産は,頭数の伸びと深い関連を有するが,昭和46年(1971)以降の乳牛頭数の伸びの停滞にもかかわらず,生乳生産は順調に伸びた。とくに昭和50年(1975)以降は5〜7パーセントの伸びを保った。このことは,乳牛の改良が進み泌乳量を高めたこと,乳牛頭数の中で搾乳牛率が69.3パーセントと高くなったこと,輸入飼料の値下りにより飼料を多給したことが大きく影響したとされている。
 一方需要をみると,とくに飲用牛乳の消費は伸び悩み,昭和41(1966),45(1970),51(1976)年の外は数パーセントの伸びにとどまった。本県生乳の約93.0パーセントを集め多元販売している岡山県酪連は,不足払法により,加工原料牛乳に対して補給金を支払っているが,加工認定乳量は昭和51年度以降,その限度数量を越える結果となった。

   指定生乳生産者団体

 昭和34年(1959)1月28日に設立された岡山県酪農農業協同組合連合会は,当初株式会社国分商店,明治乳業株式会社笠岡工場,雪印乳業株式会社津山工場と生乳の取引を実施していたが,この事業は年を追うに従って順調に伸展した。即ち県酪連の受託率は,昭和36年(1961)には県内生乳生産量の27.4パーセントであったが,昭和41年(1966)には87.3パーセントを占めるに至った。また昭和41年(1966)4月1日加工原料乳生産者補給等暫定措置法(不足払法)による指定生乳生産者団体の指定をうけ,県内産生乳を一元集荷し,16業者を対象に販売した。
 昭和53年度現在では,受託数量は16万0,367トンとなり,県内生産量の93.2パーセントを受託販売しているが,この内加工原料乳に対しては,価格保証がなされ,補給金が交付されている。従って乳価は飲用向乳価し,加工向乳価のプールしたものに補給金を加算したものが農家に支払われている。
 昭和51,52、53年度において,飲用牛乳の需要が鈍ったため,加工向出荷生乳は補給金の交付対象であ限度額を超過する状況になった。県酪連は,一元集荷,多元販売の実効をあげるために集乳路線を整備するとともに,施設の充実に努めた。即ち昭和36年(1961)に和気町に,その翌年に北房町,同44年(1969)に清音村,その翌年に賀陽町にクーラーステーションを設け,集乳基地を建てた。また,生乳輸送の効率化のためにミルクタンクローラーを昭和53年度までに59台整備した。また乳質改善のために昭和45年(1970)から53年度の間にバルククーラーを899台設置した。

   自然流下式牛舎

 この方式は昭和35年(1960)ごろ,オランダで最初に試みられたもので,昭和39年(1964)に,わが国から農業施設関係の学会に渡欧した東京教育大学の森野教授が,この方式を現地で見聞し,その概要を翌年の畜産関係誌上に発表した。翌年,千葉県の渡辺牧場に第1号が出来上がった。本県には昭和45年(1970),倉敷市の生藤牧場で初めて造られた。
 この自然流下式は,鉄格子(鉄製すのこ),糞尿溝,排水管および糞尿溜からなり,牛床には敷藁を使用せず,すのこの上に排糞排尿する。この糞尿が自然に流下して尿溜に移行する仕組みになっており,移動の途中で腐熟する。昭和51年(1976)邑久郡長船町牧野牧場では,この腐熟した糞尿に特種なポンプを利用して爆気し,好気性醗酵よりにおいを消す方法を導入した。

  乳用牛の肉利用

 昭和40年(1965)ごろから牛肉需要が伸びて国内肉牛資源が不足するようになった。そこで乳用雄子牛の精肉用肥育技術の必要性が提唱されるようになり,農林省畜産試験場が中心となり「乳用雄子牛の肉用育成に関する協定研究」を全国の公立畜産関係試験場で協同研究として取り上げ,乳用牛早期若令肥育(生後12月,体重450キロ仕上げ)と,乳用牛若令肥育(生後16〜17.5カ月で450キロ仕上げ)に2つの型に整備した。昭和40年代後半は出荷月齢は延長し,出荷体重が550〜600キロに増大した。また肥育と素牛育成の両部門が分業した。これについては第2章第5節に述べることにする。

(2)岡山県酪農近代化計画の樹立

 酪農振興法の改正により,農林大臣,都道府県知事,市町村長が一貫した方針の下に酪農近代化計画をたて,計画的,効率的に酪農を推進する酪農近代化制度が設けられた。県は昭和41年(1966)12月22日に第1次酪農近代化計画を定めた。この計画は昭和40〜46年(1965−71)を計画したもので,昭和46年(1971)に乳牛を4万7,000頭に増殖し,生乳を13万8,790トンと約2倍に増産する計画で,地区を備前・備中・美作の3地区に分け,ホルスタイン種とジャージー種の経営に分けて,6〜20頭規模の複合及び専門酪農経営の指標として示した。この計画の認定を受けた市町村は,西大寺市の外34市町村であった。
 第2次計画は,昭和46年(1971)11月22日に公表したもので,この計画は昭和45〜52年(1970−77)を計画したもので,昭和52年(1977)に乳牛を6万2,000頭に増殖し,生乳を17万7,400トン生産しようとするものである。近代的な酪農経営方式はホルスタイン種とジャージー種に分け,土地条件の制約の大小によって経営指標をかえ,飼養規模はホルスタイン種で12〜50頭,ジャージー種で15〜55頭と大幅な規模拡大を示している。この計画は35市町村が計画を樹立し,認定された。
 第3次計画は,昭和52年(1977)1月22日に公示したもので,昭和50〜60年(1975−85)を計画したものである。即ち昭和60年(1985)に乳牛5万8,000頭,生乳生産18万8,700トンを計画した。近代的な酪農経営方式はホルスタイン種,ジャージー種ともに前回と同程度の規模に止めている。この計画を樹立し,県の認定をうけたのは41市町村であった。

(3)凍結精液の利用と岡山種雄牛センターの発足

 岡山県酪農試験場では,他県に先がけて凍結精液全面きりかえを実施した。その後液体窒素による凍結技術が開発されたため,県酪連が県の依頼によりこの業務を担当することとなった。このことについては第7章第3節で述べることにする。 
社団法人家畜改良事業団は,久米郡久米町宮部下に昭和48年(1973)1月10日から岡山種雄牛センターを建設中であったが,昭和48年3月31日に開所した。これにより県酪農試験場に繋養中の乳用種雄牛9頭を移譲したことについても第7章第3節に述べることにする。

(4)乳用牛群改良推進事業の実施

 従来は,乳牛個体の改良が重点的に図られていたが,飼養規模の拡大により乳牛群の改良が図られるようになったので,家畜改良事業団が中心になって次の事業が始められた。
 酪農家の乳牛の能力検定を行ない,その成績をもとに酪農経営の改善や乳牛の改良を進めていく事業で,乳量や飼料給与量などの記帳を通じて,酪農家個々が管理技術の改善を図ったり,低能力牛を淘汰する。またこれらを集計することによりわが国の乳牛の改良を図ることを目的とした。80戸を1検定組合とし,県で3組合が参加した。

(5)優良乳用種雄牛選抜事業の実施

 農林省の企画指導により種雄牛の計画生産,後代能力検定を実施し,保証付種雄牛を生産する事業で,全国で23カ所の畜産関係試験場が候補種雄牛の娘牛検定を担当した。岡山県酪農試験場は,昭和52年(1977)から毎年30頭の能力検定を実施している。

(6)酪農振興特別事業

 昭和42年(1967)に畜産振興事業団は,昭和41年度の差益金42億2,900万円の内,約80パーセントの34億円を全国の指定生乳生産者団体を通じて酪農振興に使うこととした。県酪連は「酪農振興特別事業実施要綱」を作り,約5,000万円の助成金を配分した。
 @酪農振興のための融資に対する利子補給事業,A小団地草地改良事業,B優良乳用雌牛輸入事業,すなわち,対象は以上の3つの事業としている。
 この事業の昭和42・43年度の実績は,@酪農振興のための融資に対する利子補給に9,269万円,A小団地草地改良87.95ヘクタールに対する補助金,約845万円,B優良乳用雌牛輸入に1,070万円を補助した。
 優良乳用雌牛輸入事業はアメリカ,カナダからホルスタイン97頭,ジャージー種10頭を輸入した事業で,花尾省治,永井仁が購買に当り,柴田公夫,定金正皓,坂本晃章,野上行男が輸送に当たった。第1船は昭和42年(1967)4月8日,第2船は同年4月30日にいずれも神戸港に入港した。

(7)乳用牛の輸入

  @ ホルスタイン種をカナダより輸入(昭和44年9月26日)
 ホルスタイン種雄牛オークリフジス・コンテスター号(1,250万円)をカナダより輸入した。また,同時に種雌牛タワークロフト・エプリル・ビューティー・シュプリーム(90万円),シーリング・アンナ・ベール号(126万円)の2頭も同時に輸入した。購買に橋本県畜産課長が当り,森大二が輸送した。
  A ジャージー種をニュージーランドより輸入(昭和45年8月13日)
 ジャージー種64頭(種雄牛グレンモアー・ハイコメット号を含む)を輸入した。
 B ホルスタイン種,ジャージー種をアメリカ,カナダより輸入(昭和49年12月26日)
 ホルスタイン種7頭,ジャージー種2頭,計9頭をアメリカ,カナダより輸入した。購買にホルスタイン登録協会葛原啓男が当り,三宅律太が空輸した。いずれも優秀な牛で平均200万円であった。

(8)おもな行事

  @ 天皇皇后両陛下 中国四国酪農大学校で松のお手植え
 昭和42年(1967)4月10日,第18回植樹祭のおり,財団法人中国四国酪農大学校に天皇・皇后両陛下が行幸啓され,松をお手植された。校庭にジャージー種雌牛2頭,子牛1頭,ホルスタイン種雌牛2頭,黒毛和種種雄牛1頭,子牛1頭を陳列して天覧に供した。また学生の審査実習の状況も天覧に供した。
  A 日本酪農政治連盟岡山県支部連合会結成
 昭和41年(1966)5月19日,要求乳価貫徹岡山県酪農民代表者大会が開催された際,緊急動議として,日本酪農政治連盟岡山県支部連合会を結成し,日本酪農政治連盟に加入すべきであるという提案がなされた。その後,昭和44年(1969)3月17日発起人会が開催され,同年3月22日,桃花苑で設立総会が開催され,規約が設定され,会長に惣津律士,副会長に吉原太郎,池内豊,丸山亀一郎が選ばれた。
  B 高松宮殿下,中国四国酪農大学校をご視察
 高松宮殿下は,昭和46年,(1971)10月21日,財団法人中国四国酪農大学校を視察された。
  C 備中集約酪農地域指定10周年記念式典の挙行
 昭和42年(1967)9月23日,備中集約酪農地域指定10周年を迎えて高梁市で記念式典が挙行された。式典は神事のあと,酪農功労者,優秀酪農家の表彰のあと,県酪連会長惣津律士の「酪農近代化と日本農業」と題する講演があった。この外写真展,牛乳消費宣伝のパレードが市内で行われた。
  D 惣津律士畜産団体葬
 昭和48年(1973)4月9日,県酪連会長惣津律士は,癌のため永眠した。翌日密葬が行われ,4月24日武道館で畜産関係団体が共催して団体葬を挙行した。
 惣津律士は,明治39年(1906)笠岡市有田の生まれで,九州帝国大学を卒業後,第2次大戦中は陸軍司政官として従軍,その後,月寒種羊場長を経て,昭和24年(1949)11月,本県農地経済部畜産課長に赴任,爾来,監査委員事務局長,県農林部次長,岡山県立酪農大学校長,岡山県酪連会長,岡山県畜産会長,岡山県養鶏協会長として本県畜産振興に情熱を傾けた。特に酪農には力を入れ,集約酪農地域の指定,ジャージー種の導入,酪農大学校の設置などのほか,県畜産関係試験場の近代化を図り,三木知事の下で戦後本県酪農伸展の基礎を築いた功績は大きかった。優れた行政手腕の外に,豪放磊落,機知に富み,温情豊かな性格は,関係者の敬愛を集め,慈父として慕われた。従五位,勲四等に叙せられた。瑞宝章が贈られた。
  E 全日本ホルスタイン共進会
 全日本ホルスタイン共進会が,別表の通り開催され,選抜された代表牛は優秀な成績を収めた。
  F 第1回全日本ジャージー共進会
 昭和43年(1968)10月10日から13日までの4日間,全国のジャージー飼養県10県(岩手,秋田,群馬,山梨,長野,静岡,岡山,佐賀,熊本,宮崎)より100頭の出品があり,蒜山を会場として覇を競ったが,本県のジャージー種が断然優れており各部の優等章を独占した。グランドチャンピオンは,本県から岡田正徳の出品したワンダ・バイン・アール・ヤン号であった。