既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第1章 酪農の発展

第3節 酪農経営の推移

2.酪農経営の意義

 酪農経営の意義について畜産大事典編集委員会(昭和39年)の『畜産大事典』によれば,「農業経営のなかで飼料を栽培し,牛乳を生産し,これを販売,処理,加工することを酪農経営という」と定義している。これらの概念から,明治からの乳牛飼養を再吟味すると,明確な境界線は描かれないが,この範疇に入るものと入らないものが出てくる。厳密にいうと,乳牛以外から搾乳したもの,乳牛は飼養したが育成だけで搾乳をしなかったものなどは,酪農とは言えない。この意味では岡山市内山下で搾乳した池田類治郎は,牧場を経営しながら搾乳処理をしたことで,本県酪農の草分けということができる。明治10年以前はほとんど和牛から搾乳したものであったが,その後は洋種牛が移入され,これから搾乳した。当時は,病人でも牛乳を飲む者は珍しかったから牛乳の消費は限られていた。明治大正時代の搾乳場(牛乳屋)はまだ少なかった。それでも明治17年(1884)には16戸の搾乳場が,明治末期には187戸になった。大正時代には搾乳場は減ったけれども,乳牛の能力が向上して生乳生産量はかえって増えた。大正12年(1923)には搾乳場141戸で5,200余石を生産している。これらは県南部に集中していた。これらの搾乳場はほとんど牛乳屋で,いわゆる専業家であった。明治40年(1907)には,乳牛は1万頭を越す盛況で,全国でも屈指の乳牛飼養県であった。しかし,これらは育成牛が主体で,京阪神に移出するためのものであって,搾乳牛ではなかった。このため,酪農とは言えない。従って,明治大正時代は酪農という文字を使わないで,乳牛飼養という文字を使った。乳牛の育成だけでは泌乳能力がわからず,改良できなかったため,乳牛の質が低下し評判が悪くなり,次第に売れなくなり,飼養者が減った。大正の初期には3,000頭足らずの乳牛が飼われていた。そこで余乳対策として,大正9年(1920),邑久郡に岡山煉乳株式会社が創立され,その後,大正12年(1923)には小田郡に山陽煉乳株式会社が創立された。この2つの会社が創立さるに及んで,県南における本格的な副業的酪農がめばえるようになった。