既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第1章 酪農の発展

第4節 乳業の発達

2.近代的製酪企業の形成

 大正6年(1917)に邑久郡長浜村(現牛窓町)を中心として,有限責任信用販売組合の形成により,製乳事業を始めた。大正7年(1918)には神戸市小谷岩雄は,同所に牛酪製造所を設置したが,乳価問題等があり,数カ月にして中止した。大正9年(1920),余乳の自家処分のため,同村の時実京蔵はバターを製造した。

(1)岡山煉乳株式会社

 大正9年(1920)2月28日には,邑久郡を中心に有志が奮起して,邑久郡豊村(現在岡山市西大寺)浜に岡山煉乳株式会社を設立し,代表取締役に横山泰造が就任した。大正11年(1922)6月11日に工場が完成し,バターおよび煉乳の製造を始めた。設備費8万1,103円46銭のうち,県は創立設備費として2万8,735円を補助した。製品は森永製菓株式会社との間に販売契約をした。ちなみにこの会社は,資本金20万円(4,000株,1株50円,20円払込み)で,工場敷地2,088坪,建物348.5坪であった。

  1 事業

 (1)集乳と製品
 一般飼養者は,搾乳送乳ともに各自で行うものと,数人協同で運搬人を雇い入れて送乳する者とがあった。後者の場合,会社は奨励の意味で運搬車を支給した。
 当初の集乳区域は,邑久郡一円(20カ町村),上道郡の内10カ町村,赤磐郡6カ町村,児島郡1カ村などで,計43カ町村と,岡山市とその付近および香川県高松市の搾乳業者からも送乳があった。受乳は本工場と,山陽線和気駅前に設置した和気受乳所との2カ所で,毎日午前1回受乳した。大正12年(1923)には,総戸数308戸,乳量5,614石を集めた。
 大正12年(1923)の製造実績は,表1−4−1のとおりであった。

 (2)補助奨励施設
 @ 乳牛保留奨励 1乳期間,間断なく送乳した者に対し,1頭20円ずつ交付する。
 A 乳量に対する奨励 牛乳の脂肪および比重を検査し,規程に達し,夏期でも引続き送乳した者に対して,1升につき2銭の奨励金を交付し,なお品質のよい牛乳を送った者には,その成績を斟酌して奨励金を交付した。
 B 牛乳運搬車の供給 搾乳者10戸内外の小区域に対しては,小運搬車,それより大きい区域には大運搬車(馬車)を供給した。
 C 牛乳運搬補助 次の割合により運搬費補助を行った。すなわち牛乳1升につき18町まで2厘5毛,18町を増すごとに2厘5毛を加える。
 D 優良牛奨励 泌乳能力を検定し,次のとおり奨励金を交付した。
  1等 金100円 1日乳量(3日間平均)2斗6升以上
  2等 金 60円 1日乳量(  〃  )2斗以上
  3等 金 30円 1日乳量(  〃  )1斗5升以上。
 E 飼料の購入斡旋 飼料を搾乳者に配給して,代金を牛乳代から徴収した。
 F サイロの設置奨励 規定のサイロを設置した者に対して,奨励補助金を交付した。
 G 共済事業 搾乳者をもって組織し,乳牛1頭につき,金50銭を拠出して共済資金をつくり,会社は20円をその資金に補助し,組合員の乳牛斃死の際にこれを支給した。

  2 変遷

 この会社の業績ははじめは盛況であったが,昭和初期の不況に当り経営困難となって,昭和4年(1929)5月1日に森永煉乳株式会社と合併して,森永煉乳株式会社岡山工場となった。ところが昭和6年(1931)には森永煉乳も経営不振となり,邑久郡畜産組合が経営を継承した。日量3石程度の生乳をびんづめとして市乳処理し,岡山市方面に販売した。取締役横山泰造は,このような小規模の経営では,結局酪農民のためにならないということで,昭和12年(1937)に淡路煉乳株式会社(ネッスル)に経営を譲渡した。会社は淡路煉乳株式会社岡山工場といい,粉乳(ラクトーゲン)を製造した。昭和16年(1941)第二次世界大戦の勃発により,外資本のネッスルは引き上げ,東京の合名会社国府商店か後を継いだ。
 戦後,昭和21年(1946)になって,ネッスルに工場を返還した。昭和29年(1954)3月,経営を中止した。

(2)大日本乳業株式会社(オハヨー乳業株式会社)

 昭和28年(1953)6月,岡山市下石井に大日本乳業株式会社(資本金200万円)が市乳,加工乳,醗酵乳等の製造を開始した。そのためネッスルは昭和29年(1954)3月に経営を中止した。大日本乳業株式会社は昭和32年(1957)2月1日,オハヨー乳業株式会社と社名を変更した。この会社は旭東集約酪農地域の基幹工場として急速な成長をとげた。昭和41年(1966)5月1日,オハヨー乳業は岡山市神下へ工場を移転し,昭和44年(1969)9月にチーズ工場を新設してプロセスチーズの製造を始めた。

(3)山陽煉乳株式会社(明治乳業笠岡工場)

 大正12年(1923)7月31日に小田,浅口両郡を背景に,小田郡今井村(現笠岡市)絵師に山陽煉乳株式会社(社長駒口近一郎)が設立された。資本金25万円(5,000株,1株50円,4分の1払込み)県費補助1万2,000円であった。工場敷地面積は,1,271坪,建物280坪であった。この工場は大正13年(1924)12月に操業を開始し,翌8月に煉乳製造を開始した。奨励事業としては,乳牛保留奨励,送乳奨励,飼料の購入斡旋,無料診療等を行なった。昭和11年(1936)4月1日,山陽煉乳株式会社と,明治製菓株式会社と合併して明治製菓笠岡工場と称した。昭和15年(1940)12月27日明治製菓株式会社は明治乳業株式会社となったので,明治乳業笠岡工場と称し,昭和35年(1960)3月から市乳の処理を開始し,5月1日から明治乳業岡山工場と呼ぶようになった。また,市乳,アイスクリーム,乳製品の総合工場とした。昭和46年(1971)倉敷市西阿知に新工場を設け,本工場とし,笠岡を分工場とした。現在では笠岡工場は乳製品,倉敷工場は飲用牛乳を主力に製造している。

(4)雪印乳業株式会社

 岡山県北部酪農業協同組合の製乳工場(前身は昭和22年5月,当時の県農業会(畜産部)の建設したもの)は,昭和32年(1957)6月1日クローバー乳業株式会社に移管されたが,昭和33年(1958)雪印乳業株式会社と合併したため,雪印乳業株式会社津山工場と称した。
 昭和37年(1962)に現在の津山市河辺に工場を建設し,美作集約酪農地域の基幹工場とし,この地域の大半の生乳を集め,市乳,乳飲料,生クリーム,煉乳,バターを製造している。
 昭和45年(1970)に倉敷市片島町に倉敷工場を設けたが,ここでは市乳,乳飲料果汁を主体に製造して,中四国に販売している。