既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第1章 酪農の発展

第6節 酪農の指導機関と組合の発達

3.酪農組合等の発達

(2)酪農関係団体の概要

  1 岡山県酪農業協同組合連合会(県酪連)

(1)岡山県酪農業協同組合連合会の結成

 昭和19年(1944)1月20日,岡山県酪農組合の世話で,岡山県北部酪農組合(組合長 田口梁兵),岡山県酪農販売購買利用組合(組合長 横山泰造),山陽酪農販売購買利用組合(組合長 笠原大吉)の3組合で,岡山県酪農組合連合会が組織された。

  岡山県酪農組合連合会会則(抜すい)

 第2条 本会ハ本県内ニ於ケル牛乳生産者団体ヲ以テ組織ス。
 第4条 本会ハ第1条ノ目的ヲ達成スルタメニ左ノ事業ヲ行フ。
  1 乳牛ノ改良増殖ニ関スル施設
  2 牛乳集出荷ノ統制
  3 乳牛飼料ノ配給統制
  4 乳牛購買販売ノ斡旋
  5 牛乳代価決済処置
  6 飼料作物ノ栽培並ニ調製貯蔵ニ関スル施設
  7 飼料作物種子ノ配給
  8 酪農経営ニ必要ナル資材ノ確保配給
  9 講習,講話会,品評会,共励会ノ開催
  10 ソノ他酪農ノ改良発達ニ必要ナル事業
 昭和19年(1944)創立当時の役員は,会長(県経済連部長)山口泉,副会長(県畜産課長)武田朝男,同(県会議長)鶴田蓑輔,顧問(前代議士)横山泰造,参与(県衛生課長)秋山文雄,同(種畜場長)奥山吉備男,同(県農業会畜産課長)光岡龍二であった。

(2)岡山県酪農協会

 昭和24年(1949)4月2日,酪農振興に専念する団体として岡山県酪農協会が設立され,会長に奥山吉備男が就任した。昭和25年(1950)終戦後第1回の乳牛共進会を岡山種畜場で開催,昭和26年(1951)第1回乳質改善共励会を開催した。主として登録事業と指導事業を中心に業務を行なった。昭和34年(1959)岡山県酪農農業協同組合連合会が結成されたのを機として解散した。

(3)岡山県酪農農業協同組合連合会(県酪連)の設立

 県下の酪農農協等団体が,恒久的酪農振興のための一貫した施策と,自主擁護体制確立のため,連合会設立を強く望んだ。そこで,山陽酪農業協同組合長今井剛が発起人代表となり,旭東酪農業協同組合長奥山吉備男,平津酪農業協同組合長三宅賢,児島酪農業協同組合長井上秀雄,水島酪農業協同組合長定金正皓,岡山県北部酪農業協同組合長流郷章雄,美作酪農業協同組合長黒瀬長志の6農協の代表者が発起人となり,昭和33年(1959)6月9日,発起人会を開催した。同年7月7日,岡山市桑田町畜産会会議室において設立準備会が開かれ,同年10月28日,岡山市後楽園鶴鳴館において,赤磐郡および和気郡の畜産販売農協連合会,山陽,平津,児島,水島,北部,美作,旭東および倉敷の各酪農農協の出席のもとに創立総会を開催し,理事10名,監事3名を選出した。昭和34年(1959)1月28日に設立認可があった。
 この連合会は岡山市磨屋町9の18,岡山県農業会館5階に事務所を設け,初代会長に荒木栄悦(県農林部長)が選ばれた。
 昭和53年までに県酪連の行なった事業のおもなものは次のとおりであった。

(イ)乳牛預託事業 酪農振興のために昭和35〜39年の間に,会員乳牛694頭を預託した。
(ロ)酪農振興特別助成事業 昭和41年度は全国的に生乳生産の伸びなやんだ年であったが,消費の伸びは順調であった。そのため,外国から牛乳乳製品の輸入量も大幅に増え,畜産振興事業団の輸入差益金は42億円にも達した。この差益金を酪農振興に振りむけるべきであるという声が高まり,不足払い法の1部改正が行われた。これにより岡山県酪連に5,000万円の配分があった。県酪連はこれを資金として,「酪農振興のための融資に対する利子補給」,「小団地草地改良事業」,「優良乳用雌牛輸入事業」の3つの事業を実施した。この事業を円滑に進めるために昭和42年(1967)12月5日に「酪農振興特別事業管理委員会」を設けた。
(ハ)故惣津律士氏の胸像建立 戦後,本県の酪農を西日本屈指の酪農県に育て上げた功労者である故惣津律士は,昭和48年(1973)県酪連会長の要職にありながら,不幸病魔に侵され,惜しまれつつ不帰の客となった。関係有志は,その功績を永遠にたたえようと,拠出金587万円をもって,その胸像を昭和51年(1976)11月6日,真庭郡川上村西茅部の財団法人中国四国酪農大学校入口に建立した。
(ニ)岡山県酪農婦人協議会 酪農経営における婦人の役割が大きくなってきたので,県酪連は,酪農婦人を結集し,意識の統一・知識の向上,相互の交流を深めるために,岡山県酪農婦人協議会を昭和47年(1972)3月1日に設立し,山下房枝が初代会長となった。この会は,設立以来毎年,酪農婦人講座,研究発表大会などを開催してきたが,本会主催の研究発表大会において成績優秀であって,全酪連と全国酪農青年婦人会議の主催する全国酪農経営発表大会へ推せんした原野周子(昭和52年度)と,中山ミヨ子(53年度)は全国発表大会で第1位農林大臣賞を受賞し,今尾房枝(50年度)と難波(ホ)乳業工場の建設 生乳の需給事情の逼迫に伴い,北海道の生乳が中国地方に,九州地方の生乳が阪神に流れる等産地間の競争が激しくなり,流通機構が複雑化し,生産コストも高騰,生産者手取り乳価が減少した。これの改善のため全国酪農農業協同組合連合会(全酪連),岡山県酪連および県内プラント3者の出資による岡山県酪農乳業株式会社の乳業工場を岡山市楢津に昭和53年(1978)12月19日設立した。代表取締役に県酪連会長花尾省治が就任した。
(ヘ)生乳の販売 昭和35年(1960)1月1日,株式会社国分商店,明治乳業株式会社,雪印乳業株式会社と生乳取引を開始した。次に東洋乳業株式会社,オハヨー乳業株式会社と取引した。生乳の取引高は,昭和35年度9,311トン,同37年度5万6,456トン,同40年度6万5,696トンと増加した。とくに昭和41年(1966)4月1日加工原料乳生産者補給金暫定措置法(不足払い法)が施行され,県酪連が岡山県指定生乳生産者団体に指定され,県内生乳生産の一元集荷,多元販売の体制は一段と強化された。
(ト)飼料の購買事業 昭和34年度配合飼料「岡酪3号」を売り出したが,昭和38年(1963)にはさらにこれを改良し,「岡酪普及号」を売り出した。昭和43年(1968)には,全酪連が兵庫県小野市(現在神戸市東野田)に直営の全酪連関西飼料工場を建設したので,その後はすべてこの工場で生産された飼料を取り扱うことになった。最近1カ年間の実績ではヘイキューブなどの粗飼料1万0,170トンと濃厚飼料4万2,977トンの流通飼料を取り扱った。
(チ)乳牛改良事業 登録事業は,岡山県酪農協会から引き継いだ事業であるが,毎年約7,000件の血統登録をはじめ高等登録などを行ない,人工授精業務では凍結精液9万5,000本(うち和牛2万9,000本)を配布し,また,国の実施する優良種雄牛後代検定事業や乳用牛群改良推進事業の中で,乳牛改良を推進している。また,岡山県乳用牛改良協議会を結成し,毎年1回スプリングショウを開催している。  

  2 ホクラク農業協同組合

 昭和の初期,津山市院庄に院庄乳牛育成組合が結成され,酪農先進地淡路から種牛を導入してハラミ牛(妊娠牛)として牛乳屋に販売していた12人のグループが,津山酪農組合(組合長 尾宮菅治)を結成した。この組合は,余った生乳を御津郡一宮(現在岡山市)の守山乳業株式会社に送っていたが,戦後この会社に脱税事件が起こり,会社が破産した。そのため生乳の受入れが止まり,生産者はその処置に困った。そこで市内元魚町の「更科」に小さな加工場を建て,生乳の加工を始めた,当時は牛乳は統制品(昭和15〜25年の間)であり,配給制であったので,その配給をうけるのに長い列ができた。当時は物資の不自由な時代であったので,牛乳は適当に水を加えて煮ていた。それも常識的であったという(院庄 秋田熊男口伝)。このころ,守山乳業の大久保社長の妹婿の小沢某が「更科」で牛乳加工に従事していたが,新しく今津屋橋附近に「更科」の加工場を移した。これが東洋乳業株式会社の前身である。

(1)津山酪農工場の創設

 このような東洋乳業の動きとほぼ時を同じくして,岡山県農業会は,預託牛の生産乳の処理をするため,県下に酪農工場を設置する計画をもっていて,そ設計を久米郡支部長吉岡隆二に委託した。吉岡は児島の国府乳業株式会社を視察して,5石処理の工場設計書を作成した。その後県農業会の畜産部長に奥山吉備男が就任して,50石処理規模に案を改めた。そして昭和22年(1947)5月にこの工場を東津山(現在ホクラクの位置)に予算500万円で建設した。戦後のインフレが激しかったので,建設中に当初予算では不足するようになり,農業会所有の立木(旧泉村の地上松)を払い下げる等の苦労があった。昭和22年(1947)12月0日,仮工場が完成した。はじめ集乳量が少なく,バター,乳飲料水,乳菓(アイスキャンデー)等の製造を始めたが,製品が悪かったり,販売が思うにまかせなかったりしたため,自転車に箱をつけて職員が売り歩いたということである。

(2)岡山県北部酪農組合

 津山酪農組合は,この後美作酪農業協同組合の主流となるが,このほかに岡山県農業会の預託牛を飼う者と,作州,新見市,赤磐郡の1部の乳業者や酪農家が,昭和18年(1943)11月9日に,岡山県北部酪農組合を設立した。
 当時は,県農業会の各支部の畜産関係者が先頭に立って,役員の顔ぶれも,顧問,組合長,副組合長および幹事は,すべて県農業会関係者や農業試験場津山分場,津山畜産指導農場などの関係者からなっていた。評議会は酪農家で結成されていたが,総体的に民意の反映に乏しい欠点を持っていたようである。

(3)作備酪農業協同組合

 昭和23年(1948),農業協同組合法による民主的な農業協同組合が設立されることになった。この時期の酪農業については,まだ不安な産業であったため,地区単位の農業協同組合は,これに対して積極的に手を出そうとはしなかった。そこで,酪農家の手で「専門農協」を設立しようという気運が「岡山県北部酪農組合」の中から出てきた。
 創立総会が,昭和23年(1948)5月15日,岡山県農業会津山酪農工場で開催された。新生した作備酪農業協同組合の地域は,備前,備中,美作にまたがる広範囲のものであった。これにより,農民自らの手による純粋の農民組織ができ上ったわけである。この組合の組織や業務が,現在のホクラク農業協同組合の基礎となった。
 県農業会は,津山市川崎に津山酪農工場を設けていたが,その解散に伴い,酪農工場の帰趨が問題となった。また大勢は,酪農団体がうけるべきだという空気にもなった。この間,商業資本が買収する話や,他に移転するうわさもあった。
 作備酪農協は,昭和23年(1948)9月10日,緊急酪農懇談会を開催し,「県農業会解散に伴う津山酪農工場処理問題」について協議した。また,同12月11日に臨時総会を開催して,「連合会を創設してこの工場を譲り受ける」旨決議した。そこで,作備酪農業協同組合,高野村,河辺村,佐良山,大一,東部,神庭村,田巴村,三保村,勝加茂村,湯郷村,東苫田,郷村,横野,加茂町,東一宮村,津山市の各農業協同組合など津山市,苫田郡,勝田郡および久米郡下の農協など計19団体の参加の下に,昭和24年(1949)1月10日,「岡山県北部酪農業協同組合連合会」を設立した。
 酪農工場は,昭和24年(1949)ごろには,製酪設備(1日当たり能力20石),煉乳設備(1日当たり能力20石),粉乳設備(毎時3石),冷菓(アイスキャンデー,1日当たり7,000本)の能力があり,20〜50パーセントが稼働していた。昭和24年(1949)5月末現在において,連合会の出資は27万円であったが,その後農業会の資産の譲り受けや,工場経営について資産が必要となったので,追加出資について協議したがまとまらなかった。役員会は,連合会を解散して,作備酪農業協同組合に酪農工場を譲ることとした。このため岡山県北部酪農業協同組合連合会は,昭和25年(1950)4月1日に解散した。表面的には出資の増強にからんだ解散のように見えたが,実情は,@工場譲り受けについての連合会の果たす役割は完了した。A連合会の職員としては,工場経営が思わしくなく,前途に不安があった。B反面,酪農家は自らの手で加工業を経営したかった。C連合会は,ほとんどが総合農協による構成であったため,酪農との結びつきや,理解が少なく,工場の経営について意見が一致しにくかった,等が背景にあったということである。

(4)岡山県北部酪農業協同組合からホクラク農業協同組合へ

 昭和25年(1950)5月14日,作備酪農協第2回通常総会で,岡山県北部酪農業協同組合連合会の資産を譲り受けること,また,岡山県北部酪農業協同組合(北酪)と名称を変更すること,その他が可決された。これにより,同年7月以降は北酪の名称が使われるようになった。
 北酪の酪農工場は,北酪連合会が県農業会から譲りうけ(貸借),さらにこれを作備酪農(北酪)が譲り受けて経営するようになったが,工場の経営は依然として思わしくなく,ことに,昭和29年(1954)の不況は厳しかった。当時北酪は,組合員1,026名,出資金1,970万円,乳牛頭数1,700頭,年間集乳総量1万4,149石,製造売上1億1,200万円であったが,ついに2,900万円の赤字を出し,この再建のために,昭和30年(1955)5月25日,陳情書を県へ提出した。これに対して当時の惣津県畜産課長は,後述のようにその再建のために奔走した。
 その後,新組合長に流郷章雄を迎え,組合員一丸となって再建整備に努力した。すなわち,作州の地から「北酪」をつぶしてはいけないという合言葉の下に,役員は率先して出資金の増強を図り,乳代の支払いのためには自分の不動産を担保に提供する等真摯な態度で臨んだため,組合員の連帯感を強め,全組合員の団結が強固になり再建整備を成功させた。
 昭和30年(1955)12月10日,美作集約酪農地域の指定があり,北酪の製酪工場はその中心工場となったため,当時盛んであった生乳奮戦から脱することができた。そして,蒜山地区のジャージー生乳も併せて確保することができた。また,前記陳情書の提出によって,惣津畜産課長は,北酪の執行体制の強化を指導するとともに,農林中金,岡山県信用農業協同組合連合会等の金融機関に対して,北酪の負債の緩和に奔走した。
 一方酪農工場は,北海道バター株式会社と業務提携したために,製品の販売は順調になってきた。昭和32年(1957)6月1日に,工場をクローバー乳業株式会社(同32年6月1日,北海道バター株式会社が社名変更)に全面移譲した。
 北酪は,昭和46年(1971)10月1日,ホクラク農業協同組合と改称した。

  3 旭東酪農業協同組合

 この組合は,昭和30年(1955)3月1日に発足し,初代組合長に奥山吉備男が就任した。邑久郡の乳牛飼養の歴史は古く,明治15年(1882)ごろから本県酪農の先進地として発達し,現在も水田酪農地帯として県内外にその名声が高い。明治大正時代は,乳牛の育成を主体にしており,京阪神から子牛を移入して妊娠牛として移出していた。大正9年(1920)岡山県煉乳株式会社が設立され搾乳が始められ,本格的な酪農経営が増えた。明治40年(1907)に邑久郡邑久村(現邑久町)に邑久郡畜産組合が設立され,組合長に岡崎佐次郎が就任した。この組合は,翌年米国からウイニット号,ヨンゲコロメール号の2頭の種雌牛を輸入し,朝日村(現岡山市)藤原政治,長浜村(現牛窓町)野口金蔵に委託して乳牛改良の基礎とした。このころ,この地帯は乳牛が増殖して1,000頭を越える盛況であったという。明治42年(1909)に牛疫(疑似)が発生し相当な被害があったと伝えられている。大正12年(1923)には獣医師をおき,患畜の診療や乳牛の飼養管理を指導させた。また,乳牛の改良のために,泌乳能力検定を実施したり,血統登録を勧めた。石川,静岡,千葉,岩手の各県や北海道から優良種牛を基礎牛として導入した。大正13年(1924)には県有種雄牛第27サーベス・オームスビー・フォーベス号(米国直輸入)を受託して組合員の乳牛の改良を図った。そのようにして組合は,乳牛の改良については特別の努力を払った結果,昭和戦後の県内に酪農が普及した際,種畜供給地ともなった。昭和23年(1948)に農業協同組合法の制定公布により,この組合は邑久郡酪農畜産販売農業協同組合連合会に組織がえした。その後,昭和30年(1955)に旭東酪農業協同組合となり現在に至っている。昭和34年度旭東集約酪農地域の指定により市乳原料乳生産地域の基幹組合として発展した。この組合にとってただ一つ不幸であったことは,生乳の出荷先が転々と変遷したことである。このため組合員は,少なからぬ苦労を払った。このことは往時の酪農の宿命でもあった。