既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

1.藩政時代までの畜牛の改良

  (3) 蔓と蔓牛

 和牛は,古くから近畿,中国の各地方において盛んに飼われたもので,山陽地方では農耕,運搬,採肥など農業経営上不可欠の家畜として「農宝」といわれていた。中国地方の主要産牛地,とくに中国山脈の背梁の南北両側山地では,近世のころから優良形質の維持,改良,固定に努力が払われ,その中でとくに優良な系統を蔓といい,この蔓に属する個体を蔓牛と称した。蔓牛は,一般に普通のものより2,3割高く売買され,蔓の発達を経済的に支えた。蔓牛が和牛改良のうえにいかに大きく貢献したかについては,ここに改めていうまでもない。
 蔓の最も古いものは,今から約200年前,安永(1772−80)のころ,備中国阿賀郡釜村字竹の谷(現阿哲郡神郷町)の浪花(難波)元助(初代)に始まる「竹の谷蔓」である。これと周助蔓(兵庫県美方郡)および岩倉蔓(広島県比婆郡)の3つを3名蔓という。これらと卜蔵蔓(島根県仁多郡)の4つについては羽部義孝(昭和24年)の『家畜改良学とその応用』に詳しく述べられているが,その中の竹の谷蔓については次のようである。(筆者注 年代は昭和24年(1949)当時を基準としたものをそのまま「当時」とか「今日」とか記述することにする)

   1 竹の谷蔓

 これは岡山県阿哲郡新郷村(現神郷町)でつくられたもので,同地方では今日なおこの系統に属するものが多い。この蔓は,隣県の鳥取県日野郡に広がり,さらに島根県仁多郡にも伝わり,また,おそらく広島県へも入ったのではないかと思われるもので,古来まことに有名な蔓である。
 この蔓の古い記録は見当たらないが,20数年前岡山県阿哲郡畜産組合土屋源市が,この蔓を創成した難波(浪花ともいう)千代平の曽孫に当たる喜右衛門から聴取したものと,さらに昭和10年(1935)ごろ,岡山県千屋種畜場長竹原正男ほか1名が,喜右衛門の息源作から聴取したものが存するので,土屋,竹原両氏とともに,昭和16年(1941)8月中旬現地を訪問し,故源作未亡人たみから聴取を行ない,同時に屋敷跡や墓地を調査し,かつ,同村役場の斡旋により,同系統牛多数を実地調査した。
 起源 今から170年前(注 昭和53年から約200年前)安永(1772−80)のころ,阿哲郡新郷村(現神郷町)大字釜字竹の谷の浪花元助は,隣村千屋村(現新見市千屋)太田辰五郎(筆者注 享保2年(1802)2月生れ嘉永7年(1854)2月18日没とあるので初代元助の時代とは少しずれがある)と並んで地方屈指の富を有し,人々の信望あつく,牛馬を多く飼養し,良牛を買い集めて村内の農家に飼わせた。その長男千代平は父の志を継ぎ,畜産に従事しながら牛馬商をも営み,優良牛を買い集めて近郷の農家に預託し,貧農には無償貸付もした。
 天保初年(1830)1頭の良牝牛を得,これが牝犢を分娩したところ,骨格優美で,4歳で体高4尺2寸(127.3センチメートル)になり,その妹牛もまた4尺1寸(124.3センチメートル)余に達し,ともに繁殖に用いたところ,いずれも良牛を生産した。また,生産した牝犢を,4歳まで育成して母牛に交配したところ,つぎつぎと良牛を生産して,「竹の谷牛」の名声を得るに至った。初代元助から数えて約50年経過していた。
 当時は,普通繁殖は放牧中雌雄混牧による野交尾(牧牛方式)であった。こういう時代に,選択した牡を計画的に交配したこと,たまたま初代良牝牛を得て,これが不良遺伝因子をもたないで,優良形質をよく子孫に伝えるものであったこと,しかも,近親繁殖により優良形質を強力遺伝する系統を造成したことは,今日の育種遺伝学的見地から,まことに合理的な方法であって,その業績は真に驚嘆に値するものである。
 蔓の発達 二代元助からさらに息栄右衛門の代になり,ますます熱心に改良に励み,牛舎を改造し,あるいは子牛の育成に必要な放牧場を整備し,飼養管理の改善を図るとともに,近くの農家に同系統牛の飼育を奨励し,優良牛の散逸を防ぐなどして,竹の谷蔓の発達に寄与した。今から約100年前,島根県仁多郡鳥上村(現横田町)の豪農卜蔵某の懇望により売却した赤毛の牝牛は,当時金100両(あるいは1升桝に1ぱいともいう)であったということで,いかに名牛であったかがうかがわれる。
 この蔓は,島根県に分れ蔓として卜蔵蔓をつくり,また,鳥取県日野郡にも分れ蔓を生じた。日野郡と阿哲郡とは古くから相互に婚姻関係が多く,嫁入りには必ず牝牛1頭を持参する風習があった。したがって,当時竹の谷系統牛が日野郡へ持ちこまれて大いに賞讃を博し,表蔓,紺屋蔓の分れ蔓となり,また,ここを経由して島根県仁多郡(卜蔵蔓),同能義郡(彦右衛門蔓)と分れ蔓の関係を生じたのではないかといわれている。また,同村内において興平蔓,風呂屋蔓を生じ,千屋村(現新見市千屋)には大赤蔓および寺田蔓を生じ,上形部村(現大佐町)には亀屋蔓というように,各方向に分れ蔓を生じて繁栄した。
 特色 一般の和牛は牝で体高3尺4,5寸ないし7,8寸(103−115センチメートル)に過ぎなかった時代に,竹の谷牛は体格がよく,4尺(121センチメートル)以上に達し,乳房がよく,乳がよく出たという。初代の良牝牛は,角は飴色で,毛色が底簾であったため,この系統には往々簾毛あるいは赤褐毛がでたけれども,当時は毛色については一向かまわなかったようである。また,この牛は長命連産で,23歳まで生きて19頭の生産犢をあげたと伝えられている。この系統牛の中には老齢になると全身白毛となり,失明するまで生存したものもあったという。
 大正年代以降(1912−)この系統牛もさらに改善され,毛色も黒に固定した。今日その特色をみると,体格は一般のものよりやや大きく,体積があり,毛色は黒色繊細で密生し,光沢があり,皮膚は弾力があり,角は大体上向内弯で「い」の字形で,やや細く,角色は角根飴色,中央部水青色,先端黒色で,この特色はよく遺伝する。眼は活大,温和の相を備え,頭は中等大で,額広く,頸と胸垂はやや大きく,肩がよろしく,胸は広く,背線平直,腰強く,後躯の発育がとくによく,この点は他の牛と異なるところである。性質はきわめて温和で,しかも活発,年を経るも老衰の度が少なく,繁殖力および遺伝力がきわめて強い。以上のように羽部義孝(昭和24年)の『家畜改良学とその応用』に述べられている。
 考察 竹の谷蔓の成因について,詳細な交配図のようなものはないが,初代良牝牛を基として先づ母子の近親交配を行ない,体格の固定に努め,その後も代々牝牛,牡牛ともに選択交配を重ねたために成功したものようで,自家生産の牡犢中良牛を2頭選び,これから生まれた犢を,交配したことによって,その成因を推察することができる。
 名声を博した理由は
   ア 初代牛の体格偉大で,乳量の多い点を,近親繁殖によって固定したこと。
   イ その後2頭の自家生産牡牛を選定して,この2系統を交互に選択交配したこと。
   ウ 牝牛には近親牡牛を交配して,妊娠中売却したため,その産子もまた親ににて売却先で一層名声を博したこと。
   エ 付近農家にこの系統の良犢を飼育させ,良牛の散逸を防いだこと。
   オ 難波家は,代々地方に信望篤く,初代元助は孝子として藩主から表彰せられるなど,郷党の尊敬が深かったこと。
   カ 竹の谷は,産牛の放牧育成に極めて好適の地勢と地質をもっていたこと。

   2 岡山県内における竹の谷蔓の分かれ蔓

    大赤蔓

 阿哲郡千屋村(現新見市)大字実の豪農太田辰五郎(1802−54)は,田畑持高1,000余石,10指に余る鉄山を所有し,近隣に並ぶ者のない資産家で,天性博愛義侠,天保年間(1830−43)の大飢饉に当たっては,卒先して自家保有米を出し,所持金を尽して近郷を救済した。殖産に力を注ぎ,とくに畜産に熱心であった。当時千屋は産牛少く資質も劣っていたのを嘆き,良牛を遠近から買い集めた。文政の末(1820年代),大阪天王寺牛市で石橋孫右衛門から買い入れた牡牛は,体尺4尺4寸(133.3センチメートル)もある黒毛のm馬系の牛であったが,これを,浪花千代平から買い入れた良牝牛に交配したところ,牡犢を生産した。この牛は赤毛であったが,成育して良牛となり,体高は4尺6寸(139.4センチメートル)にもなった。この牛を繁殖に供用したところ,黒毛の良犢を生産し,千屋牛の改良に顕著な効果を示したので,世人はこれを大赤蔓というようになった。

    第13花山系統

 第13花山号(補阿235)は,大正9年(1920)8月,阿哲郡新郷村(現神郷町)に産まれた。母明石号は竹の谷蔓牛で,父花山号は国有種牡牛であった。大正10年(1921)千屋家畜市場で阿哲畜産株式会社が450円で購買し,本郷村(現哲多町)木村行太郎で飼育された。大正11年(1922)鳥取市で開催された第9回中国連合畜産共進会において一等賞を受賞した。その年,農林省購買となり,新郷村(現神郷町)において種付けに供用された。この牛は均称よろしく,体積あり,資質も良好で,産犢成績がきわめてよかった。大正15年(1926)11月10日から矢神村(現哲西町)農会(管理者柳瀬兵太郎)に転貸となり,一層よい成績を挙げたので,昭和5年(1930)11月20日,無償払下げとなり,引き続き同地(管理者木山太郎)で繁殖に供用された。種付料は,はじめ3円から5円となり,終りに7円であったという。晩年になって昭和7年(1932)4月10日,もとの県種畜場千屋分場に管理を委託されたが,同年11月4日老衰のため13歳で死亡した。種付供用期間は,大正11年(1922)11月10日から昭和7年(1932)11月4日までの満10年間で,種付頭数878頭,生産頭数780頭(補助牛登記234頭,予備登録280頭,うち77点以上30頭)という成績を残している。
 その優良形質の強力遺伝は,まことに著しかった。昭和16年(1941)調査したところによれば,県内種牡牛361頭中,この牛の血統を受けついでいるもの190頭に達し,阿哲郡の種牡牛48頭のうち,47頭がこの牛の子孫であるというように,一時は岡山県の供用種牡牛や登録牛の大多数が,父系または母系のいずれかが,この牛の系統であったというほどで,岡山県の和牛改良に尽した功績は,まことに大きいものがある。

    風呂屋蔓

 釜村(現神郷町)本村の田中信次郎(1816−87)が竹の谷蔓を基にして作出したものである。信次郎は,牛の改良に熱心で,自家産の雄牛を種付けに供用して血液の固定を図った。この蔓牛は放牧飼育により,粗飼料の利用性の高い,肢蹄の強い,健康な牛であった。蔓の名称は,屋号からとったものである。

    与平蔓

 釜村(現新郷町)田口の福島与平(一説には渡辺与平)の作出したもので,とくに体格が大きかったとは伝わっていないが,多産系であった。田中信次郎と同じ年代に,難波千代平の牛を買って,同系統の雄牛を交配して作出した蔓といわれている。

    寺田蔓

 阿哲郡千屋村(現新見市千屋)において造成されたもので,これに属するもののうち,16歳で売られて,なお売却先で4産したものがあったということで,連産性の蔓であった。

    亀屋蔓

 上刑部村(現大佐町)大字山奥字定藤松浦勘兵衛(初代,慶応元年(1865)74歳で死亡)が,釜村の田中信次郎から竹の谷蔓の牝牛を買い,その産犢がこの蔓のもとになって,つぎつぎに良牛が生産された。これを千屋市場へ出すと亀屋牛ということで博労から引っぱりだこになったという。当時のことであるから,自家の持山へ放牧して,自由交尾による近親繁殖であった。

   3 岡山県におけるその他の蔓

 上坂章次(昭和17年)の『和牛飼育精説』によれば,当時中国地方において蔓といわれたものは104であった。兵庫県に周助蔓,熱田蔓など,17,鳥取県に66高山系,紺屋蔓など19,島根県に彦右衛門蔓,卜蔵蔓など34,岡山県に竹の谷蔓など13,広島県に岩倉蔓など21となっている。
 岡山県関係のものについて,農林省畜産試験場彙報第32号(昭和13年)『和牛の蔓に関する調査』によって,既述の竹の谷蔓関係以外のものを列挙すれば次のとおりである。
 神集蔓(所在地新庄村,起源嘉永年間,以下同様の記載とする),土用蔓(新庄村,安政年間),野土路蔓(新庄村,明治初年),川上系(富原村,明治初年),構屋系(加茂町付近,明治31年),アイデ蔓(上斎原村,明治34年ごろ),ゴンボー蔓(上斎原村,明治43年),高橋系(加茂町付近,明治41年)。

   4 蔓の条件

 「蔓とは,特定の優良形質に関与する複雑な遺伝因子が相当程度ホモ化された系統をいう。そして,その系統に属し,かつ,その特定の優良形質を完全に具備し顕現している個体を蔓牛という。」と羽部義孝(昭和24年)の『家畜改良学とその応用』に定義ずけている。ただ単に優良牛の系統に属しているだけでは蔓牛とはいえない。表現型として,その蔓特有の優良形質を明らかに備えたもので,因子型としても,完全にこれを証明されるもの,すなわち,産子が同じような優良形質をもって生まれることが要求される。
 昔の有名な蔓すなわち竹の谷,岩倉,周助などの蔓について,通有的な優良形質は,次のとおりであって,これらはのちの新蔓造成において基礎条項ともなるものである。@体強健であること。A悪疾がないこと。B性質は温順であること。C繁殖力旺盛で,雌は連産すること。D長命であること。E体格は比較的大きいこと。F泌乳量多く,子牛の発育が良好であること。

 付 太田辰五郎伝(昭和35年4月28日 岡山県和牛試験場調べ『太田辰五郎伝』による)

 太田辰五郎は,今から160年ほど前(1801年 注1802ともある)備中国阿賀郡実村(現新見市千屋)に,太田政蔵政克の長男として生れた。
 当時千屋の太田家は,田畑持高1,000余石,10指に余る鉄山を有して,近隣に並ぶ者なき資産をもつ豪族であった。わびしい千屋の山里に,なぜ太田家が繁栄したかというと,辰五郎より5代前の理佐衛門が,千屋に旅をしたとき,清流の底に黒々とよどんでいる砂鉄を発見して,作州久世から移住し,苦心の結果,製鉄に成功したからである。そして,歴代質素倹約を守り,事業に励んで,次第に資産を蓄積し,製鉄業を盛んにするとともに,産業を興し,難民を救済するなどして,広く名望を集めていた。
 太田家の先祖は,源三位頼政といわれ,太田道灌もその一統といわれる由緒ある家系で,辰五郎はその23代の当主である。
 辰五郎は,幼時から武芸を身につけ,太田家を相続すると,鉄山業に専心する一方,造林,開墾を行ない,とくに産牛の奨励には極めて熱心に精魂を傾けた。
 天保年間(1832)から全国的に大餓饉があり,住民は飢えて草根木皮で露命をつなぐ惨状だったが,辰五郎は自家貯蔵米数100石を救恤し,銀10貫,小割鉄200束(1束は12貫)を窮民救助のためその筋に上納した。
 江戸西丸造営に当たって,錬鉄3,600貫を献納し,その賞として子々孫々に至るまで苗字帯刀を許された。当時の辰五郎は,他国の地主や事業家のみならず,備中足守藩,松山藩,新見藩等にまで多額の融資をするほどの資材を集めていた。
 とくに,産牛の改良増殖に尽した功績は大きく,商用で大阪,江戸へ旅行するたびに,牛市を視察し,牛の需給,改良に注目し,巨額を投じて良牛を導入し,一族をはじめ,近隣の農家に預託して,産牛改良に努めた。
 m馬産の種牡牛を導入し,また,竹の谷の浪花千代平所有の良牛を仕入れて,それまで小型であった千屋牛の改良を図り,大赤蔓を造成した。出雲国横田地方からも,良牛には金に糸目をつけず買い入れた。秋になると賞品を出して,牛の品評会を開催したりもした。これにより農家が牛に対する知識や熱意を深めるようになると,天保5年(1834),千屋牛市を開設した。当時牛市には闘牛の余興をそえて,その維持繁殖を図ったということである。
 こうした苦労により,天下の千屋牛を造成し,また,千屋市場の繁栄をもたらし,春秋2回の千屋市には陰陽の牛と商人が集まり,3,000頭を越す盛況もめずらしくないほどに栄えた。
 製鉄と産牛に半生をさだげた辰五郎は,安政元年(1854)53歳で病没した。
 明治33年(1900)島根県三瓶原野において,第1回中国連合畜産共進会が開催された際,農商務大臣から,その業績を讃えて追賞された。また,昭和2年(1927)には,千屋の旧邸跡に,碑が建立され,その功績は長く後生にしのばれている。