既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

2.明治年代における和牛の改良

 明治年代における和牛の改良は,洋種の導入によって雑種をつくることと同義語であったと言っても過言ではなかった。明治10年(1877)以前は,とくに乳用種というものはなく,牛乳を飲むことは病人でもまれな時代で,多くは和牛から搾乳し,一日の搾乳量が2升程度に過ぎなかった。雑種牛になると,一日4−5升程度の乳量であった。明治初年から20年(1887)代ごろまでの雑種繁殖は,乳肉の利用を背景として,体格の偉大な洋種の刺激により,漸次大型化や乳用能力の向上に指向したことは明らかで,和牛を改良するというよりも,洋種に近づけて役肉乳三用途の牛を造成することをねらいとしたものであった。明治20年(1887)前後になると洋血改良論に対し,和種助長論も相当強く主張されたが,とくに本県の和牛については後者の主張が根強かった。このようなことで,洋種熱は全国的に一時的に後退している。
 日清戦争以後,肉類消費の需要増加や牛価の上昇等があって,再び雑種熱が高まりはじめた。政府は,従来の無計画,無方針とも見られる雑種生産について,統一的な意図をもってこれを行う必要を認め,明治33年(1900)1月,種牛改良調査会を設け,その答申に基づいて畜牛改良の大方針を樹立した。同年は,わが国畜産とくに和牛にとって,まことに記念すべき画期的な年となっている。すなわち,前述のように今後の畜牛改良の大方針を樹立したほか,七塚原種牛牧場(1908年に種畜牧場と改称)を設定して,和牛の改良増殖事業を始め,また,同年7月1日,産牛馬組合法(法律第20号)が公布施行されて,畜牛の改良増殖組織が強化され,なお,同年10月には鳥取県三瓶原野において,第1回中国5県連合畜産共進会が開催されるなど,各般にわたり国の重要施策が実施された年であった。
 つぎに,明治33年(1900)以後と,それまでとに年代を区分して,洋種の導入などについて述べることとする。ここで断っておかなければならないことは,岡山県においても時流に従って洋種牛が導入されているけれども,他県に比較すれば,洋種導入の度合いは少なく,その影響を余り受けることなく今日の和牛(肉用牛)となっているということである。

  (1) 明治20年代までの洋種牛の導入

   1 勧農政策による洋種牛の輸入

 農林省畜産局(昭和41年)の『畜産発達史(本篇)』によれば,明治初年,政府は勧農政策の一環として畜産の発展を企図し,盛んに牛馬羊の輸入を行なった。とくに,牛の輸入に重点が置かれ,輸入の最も多かった明治12年(1879)には,年間輸入頭数は1,842頭に及び,明治2−20年(1869−87)の間,輸入総頭数2,669頭に及んだ。これらの外国種は,ほとんど乳肉兼用で,その60%余は搾乳用に供され,35%程度が累進雑種用とされていて,和牛改良を目的として輸入されたものはごく少なかった。このことは輸入牛の90%が民間業者により輸入され,また,地域的にも東北地方などに多く,和牛の産地である近畿,中国ではその数が少なかったことでもうかがうことができる。『牧畜雑誌第2号』(明治21年)によれば,「明治年間に至りては洋種牛馬の海外より輸入するものが甚多く諸官庁に購入せし頭数のみ挙くるも種牛の九拾六頭,種馬弐百四拾八頭にしてその他に種牛の如きは民間及び三府五港に在留する外国人の間に輸入せしもの決して少なからさるへし(後略)」とあって,当時輸入の多かったのは,農商務省は別として,北海道,兵庫,東京,京都,神奈川などの府県であった。
 のちの雑種奨励時代においても,積極的に雑種を奨励しなかった岡山県においては,この年代においてももちろん直輸入したものは見当たらない。また,当時真島郡見尾村(現真庭郡勝山町)池田類治郎が,乳用牛として雑種繁殖をするほか,幾らか地方の和牛改良の意図をもって洋種牛を導入しているが,その他はすべて乳用の目的で導入したものであったというべきであろう。

   2 輸入牛の品種

 輸入された洋種は,12,3品種に及んだが,このうち最も多かったのはショートホーン種,ついでデボン種で,この2品種で大半を占めていた。この両品種が多く輸入された理由は,次のように判断されている。すなわち,両品種とも乳肉兼用種であったこと,ショートホーン種は当時畜牛の王と称せられ,原産地イギリスの都市近郊の牛乳屋が好んで飼養し,早熟早肥で,骨細く,肉用としての経済性も高かった点などが買われ,また,デボン種は大きさ中等で,原産地の地勢気候などがわが国の条件に近く,乳肉のほか役用としてもかなり認められていたためであった。

   3 政府の奨励施策

 政府は,明治2年(1869)以来,地方の要請に応じて洋種牛を貸付するとともに,明治元年(1868)に,それまで幕府の管轄した嶺岡牧場を官有としたのをはじめ,内藤新宿試験場(明治5年10月),香取種畜場(明治8年11月)などを新設した。さらに,「洋種牛貸与規則」を明治10年10月発布するとともに,府県も相応の助成を行なった。しかし,多くの資金を投入した割には成績が芳ばしくなく,官営牧場の成績不良,士族商法による民間牧場の事業失敗が相つぎ,さらに,短角牛に結核牛が多く出るなどにより,洋種熱は次第に冷却するようになり,折からの不況により政府の財政も窮迫したので,明治23年(1889)に,「牛馬貸与規則」を廃止し,これらの事業は中止された。
 明治22年(1879)4月25日発刊の『牧畜雑誌』(第9号)には,東京府下における洋種牛の価格を次のように掲げている。
     1 洋種牝牛 1頭  上300−400円,中200−250円,下100−150円
     1 洋種牝犢 1頭  上70−100円 下 40−60円

 ちなみに,同年の岡山県における米価は,1石当たり4.07円(1俵当たり1円62銭8厘)であった。
 さらに,同年宮内省下総御料牧場へオランダからホルスタイン種牝牡数頭を輸入することにしたが,価格は輸送費等をあわせて1頭当たり約1,000円と見込まれている。このような情勢の中で,同誌にはまた,宮内省御料牧場長が日本牛購買のため兵庫,鳥取,島根の3県へ出張して,m馬産17頭,因幡産2頭,出雲産9頭,計牝牡28頭を購入したことを報じている。これらは日本牛として不足のない体格のものであったという。そこで,日本牛の繁殖を試みる目的を宮内省へ質問したところ,同省は「別に深く考えてやろうとしたわけではないが,洋種牛のなかにはとかく結核にかかるものが少なくないので,強健かつ安価な日本牛をもって,周到な飼養管理を施し,搾乳になれさせるようにすれば,良乳牛に変えうる見込みがないこともなかろう。したがって,これらの牛で試験し,後日好結果を得て,あたかも英国におけるゼルシー種(注 ジャージー種)のような一種の乳牛をつくることともなれば,わが国の経済上大いに利益するだろうとの趣旨からである。」ということであったという。

   4 岡山県における洋種牛の導入

 岡山県では,県の方針としては外国種を入れなかったが,南部地帯には早くから洋牛が導入され,雑種生産が行なわれていた。また,作州牛は,洋種牛との交雑により雑種が多くつくられたが,備中の阿哲牛は,ほとんど雑種をつくらないで,「登り牛」と呼ばれて,近畿地方で役牛として重宝がられる牛の生産に主力をそそいでいた。雑種は早く大きくなり,よく太り,乳の出もよいが,動作が鈍重になり,田に入れて小回りがきかず,狭い水田耕作に使役するには役能力も劣り,また肉用としても肉質がよくなく,歩留りも悪いということで悪評を買ったので,洋牛雑種熱も明治42年(1909)ごろから衰退した。従って,岡山県では他の中国各県に比べて洋種牛の導入は少なかった。つぎに,記録に基づいて岡山県へ導入された洋種について見ると次のとおりであった。
 わが国へ最初にジャージー種が輸入されたのが明治10年(1877)で,大蔵省がアメリカから原価100ドルで購入した種牡牛であった。この牛は,明治16年(1883)岡山県へ貸付されている。
 明治10年(1877)11月,真島郡見尾村(現真庭郡勝山町)池田類治郎が,勧農局からアメリカ産短角種牛牝牡2頭を借り受け,大杉牧場へけい養した。同牧場へはさらに同12年(1879)勧農局から洋牛牡1牝2頭(ジャージー種牡1,デボン種,短角種牝各1頭)および見尾村で生産された子牛1頭が貸付された。しかし,そのうちのジャージー種とデボン種の牝牡各1頭が病気にかかり,間もなく斃死した。
 (「明治13年(1880)5月20日,洋種牛をここに貸付したので,交尾希望者はひきつけて種付けを受けるように」と公布されたことが,岡山県(昭和13年)の『岡山県郡治史(下巻)』に記されている。)同16年(1883)4月,デボン種牝牡2頭を下総種畜場から借り受けたが,年を出ずして死亡した。
 明治11年(1878),川上郡荻野某は,苫田郡後藤熊次郎,中島衛らとともに,勧農局から短角種2頭を借り受けた。荻野は,その中の1頭を飼育して種付けに供用した。供用期間5カ年で,種付頭数は40頭であった。一方,苫田郡の方は香々美南村(現鏡野町),で種付けに供用され,5ヵ年間に200余頭種付されたが,洋種牛の真価を認めて種付けしたわけではなかった。その後この種牡牛は川上郡で供用された。
 明治12年(1879),邑久郡長浜村(現牛窓町)の時実恵三郎がホルスタイン種を購入した。搾乳量約7升(12.5キログラム)であった。
 明治13年(1880)8月30日,児島郡下村(現倉敷市)渾大坊益三郎は,内務省から南部産馬牝牡各2頭,洋牛(短角種)牝牡各1頭を借り受け,勝北郡広戸村および馬桑村(現勝田郡勝北町)の牧場にけい養し,さらに,明治16年(1883)短角種牝1頭,翌17年(1884)南部馬1頭を借り受け,改良繁殖を図ったが,永続せず不成功に終った。
 明治14年(1881)8月,もと津山藩士天野虎雄らは美作牧牛社を設立し,西々条郡富東村(現苫田郡富村)の梨木原牧場に牝牡牛40頭を買い入れた。翌15年(1882)にはあらたに洋種牛牝6頭および牡1頭を購入して繁殖に努めたが,経営不振のため中途で挫折した。
 明治15年(1882)8月,川上郡下原村(注『川上郡史』には東成羽村とある,現成羽町)の中村富三郎,渡辺磊三,荻野八十治らは勧農局から短角種ローヤルポープ号,デボン種ダッソー号など2頭の種牡牛を借り受け,改良に努めたが,一般が洋種を嫌って種付けする者が少なく,失敗に終った。
 明治17年(1884),短角種を,同20年(1887)ホルスタイン種を,上房郡松山村(現高梁市)柳井重宜が移入した。
 明治20年代に当時の阿哲郡長が同志と語らい勧業会を組織し,農商務省から短角種およびデボン種の貸付を受けて改良を図ったが,一般業者の嗜好に適せず,なんら改良効果を見ないまま中止された。
 明治23年(1890),勝間田村(現勝央町)の春名登(登平)が,数頭の乳用雑種牛を購入して繁殖に努め,ついで明治31年(1898)北海道からエアーシャー種牛数頭を購入して郡内の畜産改良を図った。
 岡山県においては,明治28年(1895)から外国種牡牛を輸入し,かつ,畜産上保護奨励を加え,大いに畜牛改善の途を講ずるようになったが,邑久郡もまたこれと前後して畜産の改良を推進している。大宮村(現岡山市)岡崎佐次郎などは,率先して洋種牛を飼養した者の一人である。さらに,岡本太市は,明治15年(1882),洋種牛の利益を確信し,種牛を購入して,営利を離れ,専ら農家副業として,これを飼育して繁殖に供用した。これが備前における洋種牛飼育のはじめということである。岡崎佐次郎は,明治14,5年(1881−82)ごろ,洋種牛の飼養は,将来有望な事業であって,改良の急務であることを飼養者に説いて回ったが,まだ一般に認識されなかったので,自ら卒先して数10頭を購入し,これを貸与して実益を知らせ,改良心を引き起すなどして,今や畜牛はこの地方の重要物産とみられるまでになった。(小林久磨雄(大正2年)『邑久郡誌(第3編』)ということであった。
 明治25年(1892),邑久郡長浜村(現牛窓町)馬場嘉三郎がエアーシャー種を購入した。また,翌26年(1893)には石川県金沢の水戸牧場からホルスタイン種を秋田馬太が導入した。秋田馬太については,明治15年(1882)以来,乳用牛改良の目的をもって種牝牛または種牡牛を2−3年おきに各地から購入して,改良繁殖に専念した。いずれにしても,明治19年(1886)ごろになると県下の乳牛頭数もかなり増加している。
 明治29年(1896),苫田郡久田村(現奥津町)牧野源次郎ほか2名は,北海道,石川県からホルスタイン種牡牛を購入して種付けに供用したが,とくに牧野源次郎は,和牛の改良を企図して種付けした。
 以上明治20年代までの洋種牛の導入実績をみると,乳肉兼用種とする目的であったことが分かる。前述の記録にみる限り池田類治郎(明治12年)および明治15年(1882)川上郡に借り受けた短角種とデボン種,同20年(1887)阿哲郡に導入されたデボン種が,和牛改良の意図をもって導入されたもののようである。ただし,中央畜産会(大正7年)の『和牛の調査』から全国和牛登録協会岡山県支部柳井知道の引用するところによれば,「著明な和牛の産地であるm馬,千屋,新庄,加茂,岩倉(注 広島県比婆郡)等については,洋種交配の記事は記載されていない」ということである。しかし,高山牛に明治10年(1877)にデボン種が,同15年(1882)にショートホーン種が,「改良に影響を及ぼした外国種一覧表」に見える。また,千屋牛,新庄牛,奥津牛,および加茂牛にもショートホーン種の影響のあることをほのめかしている。

   5 洋種牛の和牛改良への影響

 明治20年代までの洋種牛の導入目的は,和牛を改良することよりも,むしろ乳肉の利用が目的であったことは既述のとおりである。当時,洋種を累進交配することによって,もっぱら洋種に近いものをつくる目的で雑種が奨励された。ところが,こうした雑種方針に対し,当時種牛に対する好みのやかましかった中国地方を中心とする和牛生産地帯では,これに対する関心は余りなく,種付希望者も少なく,外国種々牛の頭数も中国地方各県は多くはなかった(表2−2−4参照)。各県ともこの年代においては,外国種の和牛改良への影響は余りみるべきものはなかったようである。とくに,岡山県においてそうであって,前述のように,明治15年(1882)8月に川上郡下原村(現成羽町)中村富三郎らの借り受けた短角種およびデボン種も,明治20年(1887)当時の阿哲郡勧業会の導入したデボン種についても,当業者の種付希望は少なく,みるべき成績はあげられていない。

 『牧畜雑誌(第59号)』(明治24年6月25日)に「備中地方雑種牛の下落に就て」と題する秋田亮の投稿がある。「日本人はとかく流行を追う癖がある。わが牧畜社会においてもそうである。数年前洋種および雑種が大流行し,当時当歳ぐらいの子牛でも数10円の価格で,これを「本邦種」に比べると2倍3倍,はなはだしきは10倍もした。利にはしるのは人情で,農家や牧畜家は,雑種や洋種の体格の良否を問うことなく,むやみに巨費を投じて購入した。ところが昨秋から今春にかけて,牛価の下落が実に著しく,売ろうとしても買い手がなく,ために熱心家は資産を傾けた者も少なくない。このごろになって学者や経験者の説くところ,@雑種や洋種は結核病が多いので血統を吟味しなければならない,A雑種造成の方法が当を得ていない(たとえば初年はデボン種牡牛を配合し,今年は短角種を配合して,何とも名称できない「混合種」を生ずるようなもの),B飼育目的を定めない,など弊害があって,従来の迷夢からはじめてさめ,こんどはむやみにこれを恐れることになり,備中地方で雑種牛の声価が非常に下落した。」とある。