既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

3.大正年代から昭和前期における改良和種時代

  (1) 改良和種

   1 改良和種

 わが国の和牛すなわち役肉用牛が「改良和種」と呼ばれるになったのは,大正元年(1912)10月,兵庫県姫路市において第6回中国連合畜産共進会が開催されたときからである。この名称は,この共進会の出品に当たり,広島県神石郡の出品牛が,当時岡山県で「改良雑種」という名称を用いていたのを参考にして「改良和種」として出品したのが採用されたといわれている。
 改良和種という名称は,のちに昭和19年(1944)になって,和牛が固定種とみなされ,黒毛和種,褐毛和種および無角和種とそれぞれ呼ばれることになるまで用いられたが,決して,「改良された和牛」でもなく,まして固定品種ではなかった。この名称のあいまいさを廃して「農用牛」ということばを提唱したのは,昭和10年代になって,当時の京都大学教授羽部義孝であった。

   2 改良和種の外貌

 改良和種と呼称されるようになっても,雑種万能の反動混乱のあと,まったく雑駁なもので,指導者の見解もまちまちで,確たる改良目標をもつための資料もない有様であった。そのため,たとえば鳥取県では改良和種は,役5分対肉5分であるといい,兵庫県のm馬牛や島根県のデボン系の改良和種は,役5分5厘対肉4分5厘といい,広島,岡山の山陽では役7分対肉3分,あるいは役6分対肉4分であると主張する有様であった。岡山県のように外国種の血液がうすく,比較的小型で,晩熟であるといわれた地方では,役を重視し,その反対に比較的外国種の血液が濃く,大型で,早熟早肥の牛となった地方では肉を重くみるという傾向であった。しかし,いずれも漠然とした意見で,能力もはっきり分かっていたものではなかった。
 大正7年(1918),鳥取県から因伯種標準体型の作成について質疑を受けた農商務省技師羽部義孝らは,基礎資料を得るため中国各県の主要産牛地の牛について「役肉用牛の体型に関する調査」を行なった。それによれば,岡山県の牛は次のように述べられている。
 「川上郡の改良和種は,広島県神石郡産牛と体型相酷似し,小型にして敏捷,かつ,晩熟と称せられた。前中後躯長の比は,牝では6対10対8に近く,牡ではむしろ中躯短かく前躯長伸,7対9対8でやや前勝ちであった。
 真庭郡産作州牛は,多少類を異にし,一般に粗野の風を有し,とくに従来の牡においては,頭部が粗大で,前躯が著しく深いわけではなかったが,後躯浅く,かつ,前躯が高く,後躯が低く,ために前勝ちで,いわゆる「サカトンボ型」を呈していた。ただし,外国種の影響を受けたと見られる牝牛は,この傾向が少なく,前中後躯長の比は,6対10対8に近いようであった」ということであった。さらに,各地における当時の希望体型のうち,岡山県関係については次のように述べている。
 「広島,岡山両県下では,おおむね牝四尺二寸(127.3センチメートル),牡四尺三寸(130.3センチメートル)から五寸(136.4センチメートル)以下を欲するものが多く,体の深みについては,一般に浅きよりもむしろ深きを好み,胸深は,牝では体高の53−54%,牡では55−57%を可なりとし,背幅および後躯の幅は,相当広きを望み,前中後躯長の比は,各地ともほぼ6対10対8を適当とする」と。