既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

3.大正年代から昭和前期における改良和種時代

(3) 岡山県における優良銘柄牛

 岡山県内務部(昭和9年)の『畜産要覧』には,当時の県内優良銘柄牛については,次のように述べられている。
 岡山県は,昔から役肉用牛の産地として有名であるが,中でも阿哲郡の千屋牛,川上郡の高山牛,真庭郡の新庄牛,苫田郡の奥津牛および加茂牛などは最も有名で,これらは,いわゆる備中牛および作州牛といわれ,役肉用種牛として各地に歓迎せられるようになった。また,これら和牛の肉は,最も賞味せられるところで,優秀な肉牛の産地である三重,滋賀等諸県の肉牛の優良なものは,直接もしくは近畿地方を経由して間接的に岡山県産牛の移入されたものが相当あり,これらの地方で肥育されたものが優良な肉牛として,大都市の消費市場に出荷され,m馬牛とともに併称されている。
 一方,役用としては,体格強健,四肢堅牢で,よく使役に耐え,農用あるいは運搬用として広く好評を博して来た。県においては,これら和牛を大正11年(1922)4月4日,岡山県諭告第1号により備作種と命名し,標準体型を作成し,時代の要請に応じて年々改良を加えてきた。子牛生産は1ヵ年14,000頭を数えるに至った。地域的には子牛生産は県北部に多く,中部は生産育成地,南部は肥育地というように,漸次地域分化がはっきりして来た。昔から名声を博して来た産牛の沿革とその大要は次のとおりである。

   1 千屋牛

 原産地は阿哲郡千屋村,菅生村(以上新見市),上刑部村(現大佐町),新郷村(現神郷町)の4ヵ村である。今では阿哲郡一円すべて千屋牛系に属するものとみなすことができる。原産地である4ヵ村の位置は,北は中国山脈を境に鳥取県日野郡に接し,東は真庭郡に接している。山林牧野に富み,おおむね地味肥沃で草生よく,きれいな水が谷間を流れ,天与の好牧場となっていて,昔から住民が牧畜に親しんだのも,主として地の利がよかったためであって,千屋牛が有名になったのも偶然ではない。
 千屋牛の起源についての古い記録はないけれども,昔から農役用として,土産牛を飼育し,耕耘運搬の用に供したが,改良発達に見るべきものはなかった。
 天保年間(1830−43),千屋村の素封家太田辰五郎は,殖産興業の志あつく,私財を投じて畜産の改良に努め,自ら優良種牡牛をけい養して付近農家の所有牛に種付けし,あるいは優良牛を買い集め,保留して改良を奨励した。また,天保5年(1834),千屋牛馬市場を創設し,四方の顧客の吸収策を講ずる等,千屋牛の名声を高めるのに大いに功績があった。
 このようにして,千屋村を中心としてこの地方の農民は争って牛の改良繁殖に努めた結果,新郷村の竹の谷蔓をはじめ,与平蔓,風呂屋蔓,千屋村の大赤蔓,上刑部村の亀谷蔓等の優良系統牛が作出され,これらが広く地方に伝わるようになった。
 明治維新以後,世の中の進歩に伴い,乳肉の需要が漸次増加し,従来のように単に役用だけに甘んずることができなくなったため,県,郡,畜産組合等の畜産関係機関が,それぞれ重要な施設奨励を加えた結果千屋牛も面目を一新し,年々数10万円の生産額をあげるよになり,郡の重要産物となり,役肉用牛としてその声価は,広く天下に知られるようになった。

   2 高山牛

 原産地は,岡山県西北部に位する川上郡高山村,大賀村(以上現川上町),平川村,富家村(以上現備中町)各村の一部といわれているが,今では川上郡一円の産牛はこの系統に属している。
 郡内は,山野に富み,その面積は全面積の8割を占め,放牧適地が多く,そのうえ水が豊富で,牧草はよく繁茂し,牛馬の飼育に適している。昔から高山村穴門山に放牧された牛馬は無病健康といわれ,各地から放牧預託するものが多かった。この山に放牧したものは,四肢強健,性質温順で,地方に転飼しても性質が悪化することがなかったので,この地方の牛を高山牛と呼ぶようになった。
 高山牛は,はじめ鳥取県大山牛市で名声を博したが,その後寛延宝暦(1748−63)のころ,高山村に藤田広五郎という者がいて,当時備中第一の資産家といわれ,牛馬商を営み,生産牛を広島県白市という牛市において,盛んに全国に向って販売し,高山牛の名声を博したといわれている。その後,寛政(1789−1800)のころ,藤井忠太という者もまた牛馬商を営み,盛んに各地に向って牛を販売したという。この結果農家は畜牛により利潤を得て,漸次繁殖に努め,今日に至っている。
 明治15年(1882)8月,川上郡下原村(現成羽町)中村富三郎ほか2名は,国から短角およびデボン種牡牛各1頭を借り受け,種付けに供用して改良に努めた。その後,県,郡の保護奨励,畜産組合の発達により,ますます改良が推進されている。

   3 新庄牛

 原産地は,岡山県北部に位する真庭郡新庄村である。もともと新庄,美甘両村産牛を総称して新庄牛という。同郡湯原村,二川村(以上現湯原町),富原村(現勝山町)などは産牛改良が進んでいて,これらも新庄牛系に属するといわれている。同地方は山野に富み,生草よく繁茂し,飼料資源は豊富で,牛の生産に好適である。
 新庄村は,もと美甘郷に属していたが,のち新庄村と美甘村に分れた。この地方は広い原野があり,昔から農家はそれぞれ数10頭の牛を飼い放牧していたということである。ことに,新庄村の牛馬市は,字屋敷というところで開市し,7月3日から3日間,牛500頭,馬100頭程度が集められたと伝えられている。また,美甘市場は,天保12年(1841)からはじまり,毎年半夏市と称して,半夏3日前から5日間開市し,牛400頭,馬100頭程度集合したといわれる。ことにこの地方から5里(約20キロメートル)離れた久世市場は,慶長9年(1604)に開市され,きわめて盛大で,寛政年間(1789−1800)には1ヵ年の売買頭数は30,000頭以上に達したという。この地に生産するものは,性質温順,体格よく,よく使役に耐えるということで,名声が高まったので,新庄牛の名称をつけたのであろう。
 明治10年(1877)真島郡見尾村(現勝山町)池田類治郎は,牧場を開いて産牛の改良に従事し,13年(1880)国から拝借金7,000円,私金2,500円を投じ,同村に大杉牧場を設け,官から短角種牡3牝2を借り受け,多数の牛を放牧して改良繁殖を図ったという。その当時から改良の機運が助長されて,優良種牡牛を受託し一層改良に努めたので,その効果があらわれて,漸次優良牛が生産されるようになった。

   4 奥津牛

 苫田郡の北部に位する上斎原村および,羽出,奥津両村(以上現奥津町)の牛の総称である。この地方は,山林原野に富み,各所に清流があって,古くから放牛が盛んで,郡内生産の中心であった。明治の中ごろから畜牛の改良に志すものが現われ,とくに,近年熱心家が続出し,改良組合を組織し,優良種牡牛の設置,基礎牛制度の設定など,一致協力して改良に努めた結果,その成績はみるべきものがある。

   5 加茂牛

 岡山県の北東に位する苫田郡加茂村,上加茂村,西加茂村,東加茂村(以上現加茂町)および阿波村の5ヵ村を原産地とする。この地域は,山林原野に富み,地味もよくこえ,牧草がよく生育し,各河川の清流が流れ,牛馬の放牧地として好適である。
 加茂牛の名称の起源については,古い記録も見当たらず,また口碑口伝もないので,はっきりしないが,思うに加茂地方の自然は,牧牛を盛んにし,地方独特の牛を生産し,加茂牛といわれるようになったものであろう。そして,世の中の進歩とともに畜産の熱心家が現われ,種牡牛の改良に,資質の淘汰に努めて,漸次改良の実績をあげたのである。

   6 その他各地の産牛

 後月郡の三原牛は,川上郡高山牛系に属し,最近改良が進んで良牛を生産するようになった。上房郡産牛も,川上,阿哲両郡から優良系統牛を導入して大いに改良され,吉備郡もまた熱心な育成家が多く現われて良牛を生産するようになった。
 さて,県下を通覧すれば,時の流れとともに,時代の要求にそって,産牛改良の目標が,共通的となって来たので,体型資質が相互に接近して来て,改良は進み,各地の産牛とも面目を一新するようになった。