既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

4.昭和戦後期における和牛の改良と登録

(3) 第二次世界大戦後の雑種問題

   1 新乳牛

 昭和17年(1942),第二次世界大戦が次第に深刻な様相を呈するにつれて,乳牛増殖のため,和牛雌に乳牛雄を交配して雑種を生産し,緊急に乳牛の増加を図ろうとの意見があった。このときは搾乳牛10数万頭から年々雌子牛が5,6万頭生産されているにもかかわらず,乳牛の増加は年間数1,000頭に過ぎない状況であるので,まず,生産される雌子牛を有効利用する方向で乳牛の増殖を期する,ということで雑種造成論は後退した。
 戦後の食糧問題のなかで,栄養食品の生産,さらには育児用として牛乳増産の急務が採りあげられ,雑種生産利用論が再燃した。これがいわゆる「新乳牛」造成論である。
 昭和22年(1947)5月7−9日,「国民食糧並に栄養対策審議会畜産部会小委員会」が,経済安定本部畜産部会により,畜産試験場(千葉市)において開催され,「和牛による乳用牛造成奨励の件」が取りあげられた。乳用牛16万頭を100万頭にするという目標のもとに,和牛の雌に乳用牛の雄を累進交配するというものであった。同年自立経済計画が樹立され,その一環として,翌23年(1948)畜産振興5ヵ年計画がたてられ,最終年次の昭和28年(1953)における乳牛増殖目標を,乳牛26万頭,新乳牛94,000頭とした。しかし,実際には宮城県の一部で新乳牛が造られた程度で,一般農家の関心はうすく,そのうち米国などから優秀なホルスタイン種が輸入されるようになったので,新乳牛は問題にされなくなった。

   2 外国の肉専用種の輸入

 家畜改良増殖法(昭和25年,法律第209号)に基づく家畜改良増殖審議会の審議結果に基づいて「和牛については,農業機械の進展と食肉需要の増大を考慮して,今後は肉利用に重点を置いて改良する要があるが,農耕用としての利用もなお無視できないので,現状程度の役利用を保持しつつ,産肉能力の向上を図る。」ということで昭和37年(1962)国は従来の役肉用牛から肉用牛へと呼称を改めた。
 農林省家畜生産課(昭和53年)の『家畜改良関係資料』によれば,牛肉の緊急増産のため「和牛より産肉能力のすぐれた」とされる外国肉専用種が,昭和37年(1962)から統計に現われている。同年にはアバディーン・アンガス種が,38年(1963)からヘレフォード種が,43年(1968)からシャロレー種が輸入され,その他の肉用種も統計面に34年(1959)ごろから現れている。さらに,44年(1969)からはじめて乳用種の肉用に供されるものが,肉用牛の統計の中に現われるようになった。さて,羽部義孝(昭和52年)の『回想記』によれば,「昭和35年(1960)度以降42年(1967)12月までに,米,加,濠,ニュージーランド,英国などから,前記肉用種を,国や地方庁で,繁殖用として輸入した頭数は,アバディーン・アンガス種牝559頭および牡30頭,ヘレフォード種牝143頭および牡17頭」であったという。これらはF1利用の目的をもって,繁殖用として輸入されたもので,このほかに直接肉用に仕向けられるものは数1,000頭に及んでいる。しかし,これら外国種は,粗飼料の利用性に富むとか,草地放牧により肉を効率的に生産するとか,期待されたほどには成績があがらず,脂肪交雑を要求するわが国の食肉需要に対応しきれないで,昭和50年(2月1日現在)アバディーン・アンガス種2,747頭(肉用牛総数の0.1%),ヘレフォード種7,098頭(同じく0.4%),シャロレー種487頭(同じく0%),その他の外国種8,759種(同じく0.5%)と,ほとんど増加を見ないで推移している。岡山県では,わずかに,昭和46年(1971)3月,高梁市にある備北家畜商業協同組合が,県や団体の指導によらないで,シャロレー種雄牛1頭を導入し,高梁市松原町で和牛およびホルスタイン種各15頭に交配した記録がある。しかし同年10月には廃用し,産子も広く一般の注意をひくことなく,さたやみとなったということである。このほかにも同47年(1972)7月,瀬戸町大井の岸本シャロレー牧場で人工授精所の認可を得ていること,同年苫田郡鏡野町農協(柳井勇組合長)に同種雄牛1頭,雌牛10頭が導入され,年間8頭種付けした記録が見られる程度である。昭和52年(1977)2月1日現在の統計によれば,岡山県におけるシャロレー種は,種雄牛1頭,同繁殖雌8頭(飼養農家2戸)となっている。
   付 新見市に発生した和牛の被毛褪色

 昭和27〜28年(1952〜53)ごろから,新見市街地の南方,新見市正田,石蟹を中心とする数部落,高梁川ぞい約4キロメートルの範囲に,遠目には灰褐色にみえる被毛褐色の和牛の出現が著しくなり,この地方が,和牛の主産地であるため,牛の登録などにおいて重要問題となった。京都大学畜産学研究室の上坂章次教授らは,昭和31年(1956)8月から約2ヵ年にわたって現地調査を行なった結果,この被毛の褪色は,遺伝的要因によるものではなく,同地にあるセメント工場の煙突から排出される粉塵の影響により発生するものであることを特定した。(上坂章次ら(昭和35年)「京都大学食糧科学研究所報告」)。その概要を記せば次のとおりである。@ 被毛褪色牛の状況は,いわゆる刺毛とはことなり,全般に毛色が淡く,それに白色毛が混じて,遠目には灰褐色にみえる。A 褪色牛は,毛がぬけ易く,皮膚が硬い感じがしたが,その他栄養状態や健康に異常は認められなかった。B 発生地の土壤は,セメント工場からの粉塵(PH 13.0)の降下により,かなり強いアルカリ性であった。C 発生地の稲藁と野草の銅に対するモリブデン,SO4含量の比を,非発生地のものと比較すると,銅に対してモリブデン,SO4の量の高い傾向がみられた。D 以上の事実から,発生地の牛においては,複雑的銅欠乏によるものと推察された。E 褪色牛9頭に対して,硫酸銅を1日0.5〜1.0グラムずつ1年間経口投与したところ,徐々に被色褪色はなくなり,かなり明らかな治療効果が認められた。