既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

5.種雄牛

(3) 県種畜場等における種雄牛関係事業

 国は明治35年(1902)4月,「道府県種畜場規程」を公布し,地方に対して適切な種畜供給機関の設置基準を示し,その設置をうながした。
 これにより岡山県種畜場が同37年(1904)6月1日,御津郡伊島村上伊福(現岡山市)に開設された。明治20年代から県の諸施策によって牛の改良は着々と進められたとはいえ,その後の諸情勢の変化により,種牡牛の不足,牧草改良の必要性,乳製品の需要増加による輸入増加対策の必要性などに対応して,従来の自治的団体により間接的に指導奨励するやり方を一転して,県が直接乗り出す時期が熟した時でもあった。
 岡山県種畜場は,設立当初から盛んに乳用種牡牛を直接外国から輸入し,また七塚原種畜牧場(広島県)など国の施設から,あるいは北海道,石川,岩手などの先進県から導入した。昭和12年(1937)に千屋分場が独立種畜場となるまでに導入した種牡牛は,ホルスタイン種37頭,エアーシャー種20頭,ブラウンスイス種2頭,雑種22頭および和種183頭であった。この中,乳肉兼用種として明治41年(1908)ブラウンスイス種牡牛2頭を原産地スイスから直輸入したときの価格は,1,314円と1,287円であった。ちなみに同年の岡山県における米価は石当たり15円78銭であった。
 和種々牡牛は183頭となっているが,種畜場には繁殖牝牛をけい養していなかったので,これらはすべて県有貸付種牡牛として,各郡市畜産組合に委託して,種付けに供用したものである。
 大正10年(1921)阿哲郡千屋村(現新見市千屋)に設立された千屋分場の開設当初の業務は,和牛に関するものを主体とした種牡牛の育成配布,種牡牛の預託育成,余勢種付け,和牛の改良繁殖に関する調査および試験,種牡牛の委託などであった。
 ここから種畜払下規程により各郡市畜産組合または,郡農会に払い下げた種牡牛は合計263頭に達している(表2−2−23参照)。
 種牡牛の育成および払下事業は,昭和31年(1956)千屋種畜場から和牛試験場へ引き継がれ,同40年(1965)に「産肉能力直接検定法確立に関する試験」が開始されるまで継続実施された。しかし,実際には,前述の試験は,翌41年(1966)度から全国和牛登録協会による産肉能力検定(直接法)に受け継がれて今日に至っているので,種雄牛の育成事業は連綿として今日に及んでいるということができる。
 ここで参考までに明治40年(1907)公布された種畜種付規則(農商務省令第13号)により,国の種畜牧場などに申請して,種付けを許可されるための条件を見れば,牝牛検査の標準を次のように定めていた。
   1.年齢満二〇ヶ月以上ナルコト(大正14年より満18ヵ月以上,ただし乳用種にあっては満15ヵ月に達し,発育可良なものは特に許可することがある,と改正された)
   1.体高三尺八寸(約一一五糎)以上ナルコト,mシ体格均称良好ナルモノハ特ニ許可スルコトアルベシ
   1.骨格及性質善良ニシテ健全ナルモノ
   1.遺伝性ノ疾患ナキモノ