既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第3節 和牛の能力利用

1.役利用

(1) 明治,大正年代における役利用

 もともと和牛の役利用は,その主体を水田における農耕用におかれていた。春秋2回の農繁期には,1日8−10時間の重労働に耐え,その他の時期は,夏季には山野へ放任され,冬季には舎飼いで,維持飼料としては稲藁や野草だけという粗飼粗食に耐え,よく健康を保ち,きゅう肥を生産し,有畜農業経営に有益で,「農宝」として重宝された。
 明治年代にはまだ肥育は普及していなかったので,和牛は専ら役利用ときゅう肥利用のために飼われていた。明治33年(1900)当時の兵庫県美方郡における調査によれば,年間耕耘日数は約30日,車用牛馬は約100日の稼働であった。また,明治44年(1911)における岡山県の畜牛1頭当たり耕地面積は平均1.53ヘクタール(阿哲郡0.48−浅口郡5.11ヘクタール)であった。全国的な統計によれば,明治38年(1905)耕地面積に占める牛馬耕面積は,田45.7%,畑32.4%であった。

   1 牡牛の役利用

 明治初期には,牡牛の役利用が極めて多かった。当時は,牽引抵抗の大きい長床犁であったこと,道路事情がよくなかったことなどにより,力の強い牡牛が必要であった。また,牝牛を使役すると繁殖に弊害があるのではないかという心配から,あるいは必要以上の愛畜心により,牝牛を使役しないで牡牛を多く使役していた。国政寛(昭和33年)の『勝田郡誌』によれば,明治10年代までの交通の不便な時代,作州地方には多数の牡牛が飼育されていた。そのころ物資の運搬は四つ車を使用し,それ以前は大八車,さらに昔にさかのぼれば駄馬,駄牛の背によっていたため,農家では牡牛の飼育が盛んであった。また,この時代には金肥はなく,専ら野草を採取して自給肥料をつくっていて,その運搬は牛馬の背だけに依存していた。交通の便が漸次よくなるとともに,牡牛の必要価値が次第にうすれ,農家は分娩による子牛の収入を得るため,明治中期ごろから牝牛を飼養する傾向に変った。英田郡(大正12年)の『英田郡誌』によれば,大正10年(1921)における同郡の畜牛頭数4,178頭のうち成牛頭数は3,661頭であって,その内訳は雌1,315頭(36%)に対し,雄は2,346頭(64%)となっていた。

   2 畜力機械の出現

 明治35年(1902)に邑久郡豊村(現岡山市西大寺)五明の奥山鹿蔵は,傘型畜力原動機を全国ではじめて考案した。畜力利用傘型籾摺機は,昭和2年(1927)ごろまでに約2,000台普及したといわれ,その1台が現在岡山県立青少年農林文化センター三徳園に保存されている。大正10年(1921)県立農業試験場塩見技師が畜力利用水田除草機を考案した。当時すでに農業機械化の先端を行く岡山県の面目躍如たるものがあった。

   3 鞍下牛

 松尾惣太郎(昭和30年)の『阿哲畜産史』によれば,「鞍下牛」がいつごろから起ったかは明らかでないが,この習慣は昭和の中期ごろまで続いたということである。阿哲郡内の神代川流域の各村,菅生,千屋(以上現新見市),新郷(現神郷町),丹治部,刑部,上刑部(以上現大佐町)の各村の郡中央部以北の一毛作田地帯,阿哲郡に隣接する鳥取県日野郡,島根県山間部などは,飼育する牛は放牧により子牛生産を目的とする雌牛であって,役用の雄牛を所有しなかった。そのためこの地方の農家は,春の彼岸ごろから田植えの終るまでの間,田地耕作用の役牛として牡牛を借り入れた。これを鞍下手といった。この地帯では,もともと牛は農耕用として飼育されていたが,牛が商品として取り扱われるようになると,子牛生産のための雌牛はもっぱら放牧飼育された。一方,雄牛は放牧に適しないので飼育しなくなったので放牧地帯の農家では鞍下牛を必要としたのである。鞍下牛は阿哲南部台地,上房,川上,御津の各郡の山の上の農家に飼われ,これらの農家は,鞍下牛の貸付料で生計をたてたといわれている。
 阿哲郡本郷村(現哲多町)の木村治郎八は,鞍下牛のきゅう先を150軒ぐらい持っていたといわれ,同村には鞍下牛を預けた家畜商や畜産家が多かった。鞍下牛の賃貸契約には次の二つがあった。すなわち,@直接契約によるものおよびA鞍下牛周旋業者(鞍下博労)をとおすもの,であった。後者の場合,周旋料は賃金の1−2割程度であったらしい。預け先の契約のない持主は,鞍下牛を小坂部市場などの鞍下市へ追い出し,借り入れる牛のきまっていない農家が,そこへ集まって賃貸契約を結んだ。貸借期間は,春の彼岸の中日から夏至10日前までを一番鞍下といい,一番から帰った牛を,さらに下流の農家へ夏至まで二番鞍下に出した。二番鞍下は,南部の周旋人により都窪郡や児島郡の田植のおそい地方へも貸し出された。
 賃金は,鞍下牛が酷使されて消耗が甚しく,時に死ぬような最悪の事態の起こることも考えに入れて,親値をつけ,牛持ちは借入証書を借り手から取った。金額は,牛の年齢,体型,力量など能力に応じてきめられた。一番鞍下では牡牛3,4歳のもので米4斗,5,6歳で1石,8−10歳で8斗,それ以上老齢になると安くなり,13歳以上は「鞍上げ」といって廃牛並みであった。二番鞍下は,僅々10日間位の短期であるから,1日当たり米幾らということで,借り手の必要度に応じて1斗から8−5升程度であった。
 鳥取県には無畜農家が多かったので,春秋2季の農繁期には岡山,広島両県から鞍下牛を借りていて,鳥取県下の髄処に牛市を開いて賃金をきめていた。近世末期,備中阿哲地方には春の彼岸の鞍下牛借入契約期には,鞍下市がたった。小坂郡(現大佐町),草間,豊永(以上現新見市)のほか,上房郡の北部(現北房町),竹の荘(現賀陽町),御津郡北部の円城村(現加茂川町)あたりの農家が,飼っている鞍下へ出す牛を追って集まり,これを北部の役牛を飼っていない農家が借り入れた。川上郡の一部や阿哲郡南部からは坂本(現成羽町)へ集って鞍下市が開かれた。
 鞍下牛の習慣は第二次世界大戦の終戦のころまで続いたということである。勝田郡からも鳥取県へ出稼ぎに行く牛が,八十八夜から田上りごろまで黒尾峠,右手峠を越えて陸続として往来したということである。

   4 東牛(ひがしうじ)と西牛(にしうじ)

 「東牛」とは備中や伯耆から近畿地方の役牛に売られて行く牛のことで,車をひくので「車牛」とも「上方牛」とも言った。近世末期には上方牛に適する牛を専門に扱う上方博労もいて,伯耆大山市場,備中松山市場,作州久世市場などをとおして近畿地方へ転売される牛が多かった。明治時代になると,使役したあと肥育して肉用とする途も開けた。行先きが高野豆腐の産地であって,豆腐粕を食わせるので「粕食い牛」ともいい,これが大津や伏見の車牛となった。性質が温順で,体格のよい,骨組みのしっかりした牛が車牛として仕向けられた。松尾惣太郎(昭和30年)の『阿哲畜産史』によれば,雄子牛が産まれて3日のうちに「メェ」と鳴いたら,「大きくなって大津の車牛に売られて,生涯重労働するのは嫌だ」と泣くのだということで,早速左ないの縄で「もがた」をつくり,これをはめてお釜様を拝ませるか,産土荒神へつれて詣って「車牛に行きませんように」と祈ったということである。
 「西牛」というのは,阿哲郡から西方の備後,安芸,石見などによろこんで買い取られて行く牛のことであった。この地方の資力のある大百姓に役牛として買われ,供養田植に着飾って使われた。西牛は何よりも角のよいことが大事で,顔立ちのすぐれた,前躯のよいことが要件であった。角は細目の新月形で,顔のよい,頸,肩,脚まで前躯のすぐれた,いわゆる「きりょう」のよい牛で,性質の従順なものが歓迎された。阿哲郡内でも哲西町などで供養田植が行なわれていた関係で,このような条件の牛が多く飼われていたのである。

   5 駄載の減退

 大正3年(1914)第一次世界大戦の勃発により,農村労働力の都市への流出により,畜力利用の重要性が増加した。その後,大正14年(1925)に畜力利用奨励要綱(畜第2664号)が令達されるに及んで,畜力利用は大いに進展した。昭和6年(1931)の有畜農業奨励規則(省令第16号)の公布されたときには,全耕地面積のうち,田70.8%,畑42.2%が牛馬耕されていた。
 畜力利用の進む中で,大正年代において畜力利用上の今1つの特色は,駄載の減少ということであった。山間部の和牛生産地でよく見受けられた飼料,敷料,薪炭,稲,米俵の駄載運搬は,金肥利用の増加,労賃の高騰による草刈習慣の後退により,また,道路交通事情の好転により,次第に荷車に,さらにトラック運送にとってかわられたのである。

   6 朝鮮牛の輸入

 朝鮮牛は,明治維新前長崎,福岡両県にすでに輸入されていた。明治時代になって多くの府県に輸入を見ているが,岡山県へは明治20年代になってはじめて輸入された。明治37,8年(1904−05),日露戦争により肉の需要が急増し,多数の畜牛が屠殺されたため,農業経営に支障を来すほどに牛は減少した。すなわち,全国統計をみれば,明治36年(1903)の1,286,000余頭が同38年(1905)には1,168,000頭と約12万頭減少し,岡山県の場合同期間に92,600余頭から約82,000頭へと1万頭以上の減少をみている。このため役用能力の高い朝鮮牛の輸入が増加した。岡山県においては明治末期から昭和13年(1939)までが盛んに朝鮮牛の移入された時期であった。全国的には大正元年(1912)から14年(1925)までの間478,000余頭(年平均約34,000頭)の移入があり,昭和元年(1926)から11年(1936)までの間588,500頭(年平均約53,500頭)が移入された。昭和7年(1932)において朝鮮牛の頭数は,全国で244,000余頭(全体の17.8%),岡山県においては全体の12.2%に当たる10,000頭余り(全国第10位)となった。さらに昭和11年(1936)における全国の役肉用牛160万頭の中で,朝鮮牛は18.2%に当たる291,000頭であった。
 朝鮮牛は,肉資源としてまた,役用として性質温順で労働意欲が高く,体質強健,耐久力に富み,粗放な管理に耐え,役用能力の高いことに加えて価格が安かったので,農家に歓迎された。昭和初年ごろ,伯備線の車窓から見る高梁川下流の中洲などに農後7月から放飼された牛の大多数が褐い朝鮮牛という光景を目にした人も多かったと思われる。
 先代初太郎の時代から岡山市において手広く家畜商を営んでいる水内潔の語るところによれば,明治43年(1910)日韓併合を契機として,内地の牛のほぼ半値で買える朝鮮牛を,現地で購買のうえ,釜山−下関経由で移入し,下関市場や尾道市場を中継して,または直接岡山市場へ多数持ち込んだということである。これらは,吉備高原南部地帯で育成され,秋上げ牛となって岡山周辺平野部の農家で使役された。