既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第6節 和牛(肉用牛)の流通

1.家畜市場と和牛(肉用牛)の流通

(2) 明治年代(家畜市場法公布まで)における家畜市場の変遷

 明治年代になると,文明開花とともに家畜市場は一層急速に形成され,時代の推移につれて博労宿兼問屋が衰退し,これらに代って家畜商が新勢力として台頭してきた。家畜市場は,これらによって設立された家畜市場株式会社によって経営されるようになった。しかし,明治43年(1910)3月18日公布された家畜市場法(法律第1号)が,翌44年(1911)2月1日施行されるまでは,取締規約や政府の指導にもかかわらず,家畜市場の運営も家畜の流通も旧態依然たるものであった。
 農業省畜産局(昭和42年)の『畜産発達史』(別篇),石田寛(昭和36年)の『明治以後「登り牛」の流通構造−大登り,相登りを中心にして−』,石田寛ら(1960)の『大山博労座−牛馬市研究第2報−』,石田寛ら(昭和33年)の『中国地方山間盆地牛市の研究−岡山県久世市の場合・・』などをおもな文献として,明治以降の家畜市場を概観し,その形成と近代化について述べれば次のようである。
 前掲の文献によって,明治17年3月5日『全国牛馬市場調査表』(農務顛末,第4巻)による明治15年(1882)の牛馬取引頭数をもとに挙げられた全国の巨大市場は表2−6−2のとおりで,これらはすべて生産地に立地し,明治10年代には消費地市場はまだ発達していなかった。古くから和牛の主産地であった中国山地は,巨大市場の密集地で,とくに大山牛馬市が1頭地をぬきんでて大きかった。また,中国山地の市場のほとんどが牛馬市であったが,大山と久井の牛馬市のほかは牛が主体で,馬はごく少数に過ぎなかった。そして,大市場の分布は,山陰の石見−出雲の山間部−伯耆の西部山間部−作州の出雲街道ぞいというように,生産地から古い街道筋に栄えていた。
 この年代における岡山県内の家畜市場のうち,年間取扱頭数が100頭以上のものは表2−6−3のとおりであった。

   1.家畜市場の変遷

 中国山地は古くから和牛の主産地として頭角をあらわし,多数の優良牛を他地方へ供給するため,多くの大市場が栄えた。ところが,和牛の飼養方法(放牧形態),利用方法(農耕技術,肉利用),交通事情などの変化とともに家畜市場の立地条件は変り,とくに,鉄道,道路の交通の便の発達に伴い,それまで山間生産地に立地していた市場は,鉄道や船による交通の要点に移動するようになった。生産地帯にあって繁栄した久世市場,一宮牛馬市場,千屋市場などは漸次衰微し,日本一を誇った大山牛馬市も,やがて高梁市場や尾道市場にとってかわられたのである。
 昭和前期ごろ日本一の規模を誇った尾道家畜市場についてみると,明治24年(1891)に山陽鉄道が尾道に通ずるまでは,付近の栗原村にあった農村の寄合牛市に過ぎなかったものが,同34年(1901)に山陽鉄道が下関まで開通し,同39年(1906)鉄道による貨物輸送が神戸の中継なしに東京まで直通するに至り,この市場の取引き頭数は急速に増加した。同41年(1908)家畜商を中心に常設家畜市場が設立され,その後朝鮮牛の移入により,家畜商も急増し,日本最大の集散地市場へ発達し,第二次世界大戦前のピークに当たる昭和15年(1940には年間入場頭数7万頭弱に達した。(最も多かったのは,昭和30年(1955)の7万頭である。)
 一方,中国地方からの登り牛の受入れ中心市場は,河内国古市郡駒ヶ谷および大和国南葛城郡蛇穴の牛市であって,明治17年(1884)の全国牛馬市場調査によれば,m馬,丹波,因幡,美作,備前,伯耆が供給地となっていたが,明治になると美作博労が中心となった。美作ではおもに一宮と久世の牛馬市で取り扱われた牛が上方博労の組織的集団によって駒ヶ谷へ送りこまれた。これが「大登り」であった。駒ヶ谷牛馬市は,明治になってからは,美作からの登り牛で成り立ったといってもよいくらいであった。もう一つの受入れ市場であった蛇穴市(相登り市)においても,幕末ごろから美作博労が圧倒的に多数を占めていた。
 明治になって「相登り市」は,春市は八十八夜まで,秋市は彼岸下り13日まで登り牛が送りこまれ,これらが売り尽くされるまで開市された。駒ヶ谷の「大登り市」は,「相登り市」より1ヵ月おくれで,同じような形で取引きされていた。以上の両市場をその配下において畿内一円の牛馬取引きを独占していたのが天正元年(1573)の開市になる天王寺牛市であった。これは明治2年(1869)廃止された。そこでかつての天王寺独占形態は,前間両市場と中国山地からの登り師と呼ばれる博労仲間とによって再現されようとした。かれらは供給量の制限,新規加入者の制限などを行ない,河内,大和,紀伊,伊勢,近江における牛の取引きを独占した。これが明治43年(1910)に家畜市場法(法律第1号)の公布されるまでの姿であった。そして,昭和16年(1941)に牛の最高販売価格が設けられてから,商売が成り立たなくなるまで,登り牛の流通は続けられた。

     久世市場の場合

 伯耆の大山,備後の久井,石見の出羽などの巨大中継牛馬市は,長期間にわたって開市され,その時は常設の宿屋のほかに臨時に博労宿が設けられ,市場の近郷一帯は牛馬の啼き声と,博労,見物人,露店で雑踏をきわめた。久世市場の秋の大市も,久世商店街にとってはまさに街の盛衰にかかわるものであった。
 関西6大牛市場の1つと数えられる久世市場は,明治17年(1884)には5月と9月とに開市され,その売買頭数は牛1,000頭,馬200頭で,出雲,伯耆,因幡の牛まで集まり,販路は美作,播磨,備前,備中,讃岐,阿波,摂津,大和に及んだ。手数料は1頭につき8銭であった。
 山間大市の特色は,放牧牛を秋山から収容した秋市にあって,久世もその例外ではなかった。久世市場の開市季節,市の名称と販路,取り扱う牛の特質などは次のようであった。

市の名称(開市の季節) 商 圏 特色ある取引きの種類 特別の名称
秋市

畿内 

西中国山間

成牡 

成牡

東牛 

西牛

春市

岡山県中南部 

山陰・四国

主として明3歳の牝 鍬牛(鍬のごとく農耕に使う牛)

 久世上町には本陣と多くの博労問屋が軒を連ねて,その繁栄を誇示していた。
 出雲街道を中にはさんで相対した問屋は,裏に杭を打って牛けい場を設け,これらは,それぞれ個々別々に市を開き,博労宿を兼ねていた。問屋は買手客筋,売手客筋,あるいは地域別に,取引き先がほぼ一定していた。博労宿は平素は農業を営み,開市期間中だけ博労問屋兼宿屋となっていた。
 南中屋は,問屋の中で最古のもので,最盛期には120人も泊めたことがあったという。博労問屋は,入場料,手数料さらには宿泊料をとった。
 明治44年(1911)施行された家畜市場法は,それまでの市場組織を一変させた。従来の問屋単位の取引きから,資本金5,000円の久世定期家畜市場株式会社に移行し,それまでの問屋兼博労宿は株主となって,新発足の家畜市場に役員として関係しながら,単なる博労宿となった。家畜市場法ができても,当分の間は旧悠依然たる取引きが続いた。しかし,これも長続きしないで,そのうち交通の発達とともに宿泊する博労が減少していった。
 春秋2季の市場は,中国山地の牧畜形態の変化,すなわち,粗放的放牧から子牛産地帯として確立されるに即応して,久世市場で,取引きされる牛には質量両面で変化が生じた。すなわち,@成牡牛の減少とその価格の低下,A牝牛および子牛の増加とその価格の上昇,B入場頭数,総取引き価格の減少という3つの現象が顕著となり,年間の入場頭数に占める秋市の比重が低下し,秋市の特色がしだいに失われて行った。また,入場頭数の減少の結果,開市期日も短くなった。
 明治39年(1906)以降,売買頭数の減少をたどった久世市は,高梁市場はいうに及ばず,山陽線ぞいの新興市場である倉敷,岡山,瀬戸,和気などの市場にも及ばなくなった。(昭和年代における各集散地市場成績参照)

     岡山家畜市場

 古くから万成の旧山陽道ぞいに牛馬市があって,「上の宿」,「下の宿」と呼ばれる2軒の問屋を中心に,取引きが行われていた。取引きの中心になったのは「秋上げ牛」と「野上げ牛」とであった。吉備高原南部の農家は,中国山地の各市場,すなわち大山,千屋,久世,高梁などの秋大市から牝子牛を購入し,1−2年使役しながら3−4歳となるまで飼い,八朔または麦の作付けの終ったあと,「秋上げ」と称して11月下旬から12月初旬に,牛馬市をとおして岡山平野部の農家に売った。秋上げ牛は家畜商の手によって牛馬市に集められた。買入れがわの農家は,翌年6月まで舎飼いにより飼育し,田植えに使役したあと「野上げ牛」または「田上げ牛」と称して,家畜商または万成の牛馬市場をとおして吉備高原南部地帯の農家にあずけた。預け料は現金で支払われたが,岡山県家畜商々業協同組合現事長水内潔によれば,昭和20年代における預け料は,1期間200−300円ではなかったかとのことである。預けられた牛は,晩秋になると,再び岡山平野の農家につれもどされた。このようにして,牛が老年になるまでくりかえされた。
 明治41年(1908),御津郡石井村大字富(現岡山市岩井)に,株式会社組織で岡山家畜市場が開設された。日露戦争(明治37,8年)による肉需要の急増は,市場取引き頭数を2倍以上にした。岡山市では,軍需を中心に缶詰工場が急増した。また,肉食の普及により,成牝牛を大量に阪神地方へ移出するようになり,これに対応して近代的な牛馬市場が必要となり,岡山市場ができたのである。
 役牛としての野上げ牛は,肉牛として多量家畜市場へ出荷されるようになり,預け牛としての野上げ制度は急速に崩壊して行った。
 明治末期から昭和13年(1938)までは,朝鮮牛の移入が盛んに行なわれた時期であった。日韓併合を機に,内地の半額という安値で下関,尾道市場を中継し,あるいは直接岡山市場へ移入された。これらは,和牛にかわって吉備高原南部地域で育成され,秋上げ牛として岡山平野部の農家へ売られた。
 岡山家畜市場は,駅西地区の発展により,付近の住宅から衛生問題がおこり,また,市場拡張が困難となったため,昭和14年(1939)3月に岡山市三門に移転した。
 第二次世界大戦後,市場取引き頭数は増加した。これは昭和28年(1953)度から開始された有畜農家創設事業による貸付牛や去勢牛飼養の急増によるためであった。昭和32年(1957)ごろから普及しだした動力耕運機は,同37年(1962)にはすさまじい増加で,農家は牛を手放して急速に無畜化したため,市場取引き頭数は一時的に増加した。(昭和年代における集散地市場成績参照)。その後,肥育事業の進展に伴い,主として肉牛取引市場となった。この市場は,昭和31年(1956)に家畜取引法(法律第123号)の施行により,岡山集散地家畜市場となり,県下唯一の家畜商系(岡山畜産事業協同組合,水内潔組合長)の経営する市場であったが,昭和47年(1972)廃場となった。

   2.家畜の取引状況明治

 昭和26年(1893)9月25日の『牧畜雑誌』(第113号)に,「岡山県下の牛馬市」と題して,備中秋田猪太郎の報文が次のように掲載されている。
 「本県において牛馬市の有名なのは,備中上房郡高梁および阿賀郡千屋であって,その最も盛んなのは高梁である。開市は毎月9の日で,8の日に追いこみ,10の日に終るので,1ヵ月のほとんど3分の1はこれにあてている。休市は6,7両月だけである。北は因幡,伯耆,出雲,西は安芸,備後,南は讃岐,阿波,東は備前,美作,播磨および紀伊などの諸国から来る牛馬商は,おおよそ300人内外であって,牛馬の頭数は平均1,400頭をくだらない。その多くは阿賀および川上の2郡から入場するものであって,これにつぐのが因幡,伯耆,出雲からのものである。問屋は10軒で,牛馬の売買はその手を経なければならない。手数料は1頭につき双方から7銭ずつ,すなわち14銭を徴収する規約となっている。(中略)
 千屋は,開市の度数は甚だ少ない。しかし,牛の精良なことは高梁の及ぶところではない。」ということで,当時の拠点市場の面目をうかがうことができる。
 岡山県の牛馬流通に大きなかかわりあいをもつ大山博労座は,明治10年代年間9,000頭近い牛売買頭数であったが,同20年代になると1,000頭台へと,大勢としては凋落の傾向がはっきりしている。なお
,明治20年代ごろの牛の相場は,表2−6−5のようであった。明治19年(1886)の牛価が1円となっているのは,次のことで理解できよう。すなわち,明治17年(1884)は牛価の暴落した年で,中国農業試験場農業経営部(昭和29年)の『和牛の流通経済』によれば,同年は「物価大いに下落,牛馬1頭1円に至る」ということであった。

 表2−6−6は,明治年代において県内屈指の規模を誇った久世市場における取引き価格であった。これらと米価とを対比してみれば,明治40年(1907)の岡山県における米価は,石当り16円24銭であったから,1俵が約6円50銭となるので,同年の牛価64円59銭は,ほぼ米10俵に相当している。昭和5年(1930)になると,米価は1俵10円94銭となり,同年の成牛の価格が米10俵の価格とほぼ見合っていた。
 明治21年(1888)下期における岡山県内のすべての家畜市場についての取引き実績が,『牧畜雑誌』第32号(明治23年5月)に掲載されている。当時の家畜市場の名称,所在地名,取引き頭数および価格を知るうえに貴重な資料であるので,表2−6−7に掲げることにする。

 明治年代に阿哲郡内において開市していた牛馬市場についてみれば,明治29年(1896)に深ヶ尻市(藩政時代新見藩主により開市された新見牛馬市は,新町にあったが,明治14,5年ごろ道路上での取引きが禁止されたので,新見町深ヶ尻に移転した),小坂部市,千屋市,西谷市,油野市,上市市の6ヵ所であった。開市には許可が必要で,営業方法は慣行どおり,税金を納入し,獣医師の派遣を得て,入場する牛馬の健康診断を行なうことによって,開市の許可を得ていた。入場した牛馬からは手数料としてけい留杭賃を徴収したようであった。
 これらの市場の沿革その他と明治29年(1896)における市場別の牛の取引状況については,松尾惣太郎(昭和30年)の『阿哲畜産史』に詳しく述べてある。
 ここで「牛馬等家畜市場税」について述べよう。明治12年(1879)に府県会規則によって初めて民選議員からなる県会が成立し,その審議を経て,初めての県予算が議決された。総額は368,324円20銭であった。財源をみると,同年地方税徴収方法のうち地方税中営業税並雑種税規則の中に,次のように挙げられていた。

     諸市場上り高税

  魚 市 場 上り高 1,000分の5  月収とする。
  牛馬市場  〃   100分の5  1日上り高50円を低度とす日税
  糶 売 市  〃   〃      〃   10円   〃
  臨 時 市  〃   〃      〃   〃    〃
  諸飲食店             年税とす
  魚獣肉煮売         2円(鰻屋3円,そばうどん屋50銭,汁粉屋50銭など)

 岡山県統計書(明治35年)には,同年における郡市別の牛馬市場取引成績が示されている。これにより家畜市場の所在地を示せば表2−6−8のとおりである。

 つぎに,家畜市場の数の変遷および取引き頭数,価格等の推移をみれば,表2−6−9のようであって,明治年代において定期または臨時市場の甚しく多かったことに驚かされる。