既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第3章 養豚の進展

第1節 養豚事業の変遷

1.豚の飼育状況,頭数の変遷

 本県の養豚事業は最近になってようやく伸展をみせているが,従来は他の家畜に比べ全く振るわない分野であった。そのためか養豚の歴史に関する資料は乏しい。

(1)明治・大正年代の養豚

 この時代の養豚は,主として南部(和気・御津・児島・都窪・浅口・小田の諸郡)で,少数の飼育者が,改良にあまり重きをおかず,岡山県岡山種畜場から種豚を払い下げてもらい,これを基礎に繁殖していた程度であった。
 明治・大正年代の豚の飼育頭数は,表3−1−1の通りである。これらには内種・外種および雑種があり,雑種が圧倒的に多かった。

 更に大正3年(1914)の郡別の飼養状況をみると表3−1−2の通りであった。
 明治37年(1904)から岡山県岡山種畜場は,豚の改良に努め,種豚の払下けを行っていたが,この事業は肉の価格と密接な関連をもっていて,大正6年(1917)に僅か600頭であったものが,大正13年(1924)には,6,000頭に達している。しかし,経済の大変動により大正15年(1926)には3,300頭に減少した。このころの屠肉は,県内消費の外に香川・兵庫にも移出されていた。
 大正年代の飼料は主として醤油粕であったから,養豚は南部の浅口・邑久・小田・児島・上道の諸郡で盛んであった。北部は取引や,輸送の不便も養豚振興を阻んだ原因であった。また養豚業を嫌忌する風潮が強かったため普及しなかったようである。

(2)昭和年代の養豚

  1 昭和前期の養豚

 昭和年代に入って養豚はようやく盛んになってきた。(表3−1−3参照)

図3-3-1 ヨークシャー種雄豚(昭和前期)

図3-3-2 ヨークシャー種雌豚(昭和前期)

 岡山種畜場は,昭和の初期に毎年生後2〜3カ月の種豚を30〜50頭払下げを行った。また,県は昭和6年(1931)から農家の有畜農業について強く指導した。その中で,耕地5反歩以上の農家は大動物1頭(又は中動物2頭以上)及び小動物50頭羽以上飼養のこと,A耕地5反歩以下の農家は数戸共同して大動物1頭(又は毎戸に中動物1頭以上)及び小動物30頭羽以上飼養のこと。という目標をたてて事業を推進した。また農会・畜産組合・産業組合などの諸団体もこれに参加して協力したので,このころの養豚熱は急に高まった。昭和2年(1927),4,602頭の豚は,昭和6年(1931)に7,063頭に増え,その飼養農家は2,112戸となり2,000戸を突破した。ところが昭和6年(1931)10月と翌年3月の2回,豚コレラが流行して頭数が激減した。昭和8年(1933)の都市別の頭数は表3−1−4の通りであった。

 昭和前期では,昭和13年(1938)が最も盛んで,2,833戸で8,908頭を飼育していた。その後,飼料事情の悪化に伴い昭和21年(1946)には,386頭という激減ぶりであった。
 昭和前期には,内豚は県内屠殺が多く,種豚は兵庫,香川両県に移出されていた。

  2 昭和戦後期の養豚

 岡山県企画室(昭和24年3月)の岡山県農業振興計画(第T次案)は,食肉資源の増強に最も重要な家畜として種豚の確保培養に重点をおき,農家副産物,粕類,厨芥等の飼料入手可能な地域に養豚の普及を図ることとし,昭和23年(1948)559頭を昭和28年(1953)に1万頭余りに増殖する計画をたてた。この増殖目標を達成するためには,@指定種豚場の増加,内容の充実を図る。A人工授精の普及により種牡豚の不足を補う。B先進地から豚の精液導入を図る。C飼養管理技術の改善を図り,経済的養豚経営並に肉質の改善を図る。D豚の販売を有利にするため,豚肉の簡易貯蔵加工法の普及を図る。E豚コレラ等の伝染病の予防に努めるほか,特に寄生虫による被害の防圧に努める,などとした。
 この計画にもかかわらず昭和28年(1953)には約3,300頭と依然として増殖せず,本県の養豚は全国的にも低位であった。

 昭和36年(1961)10月9日には,三木知事自らの尽力により,スウェーデンからランドレース種豚を30頭(雄5頭・雌25頭)導入し,県酪農試験場(5頭,約40万円)及び県指定種豚場で純粋繁殖が行われた(一部は臨時的に県和牛試験場に繋養)。岡山県酪農試験場蒜山分場長多田昌男は昭和36年(1961)10月18日養豚視察のためスウェーデンに派遣された。
 昭和37年度に岡山県酪農試験場に養豚部が設けられた。また,県内に認定種豚場を設け,これを主軸に豚の改良を図った。
 昭和37年(1962)8月には岡山市に県営食肉市場が開設され,枝肉によるセリ取引きが実施されるようになり,共同出荷による肉畜販売の合理化が図られるようになった。家畜市場の整備統合も行われ,昭和38年(1963)4月には,岡山県総合畜産農業協同組合連合会の津山家畜市場が完成し,市場規模の拡大による家畜取引価格形成の合理化が図られた。このような奨励施策のために,養豚は昭和34年(1959)ごろから急速に伸び,同年の1万1,300頭が,昭和37年(1962)には3万5,010頭,昭和43年(1968)には5万頭を突破した。従来は県の南部ないし南西部に限られていた分布が,このころから北部姫新線沿線にも普及した。しかしこの間には,いわゆるピッグサイクルと称し,約3年間を周期に一張一弛をくりかえして増頭した。また,飼養規模も昭和34年(1959)の平均3.1頭から昭和38年(1963)には6.0頭と大幅に多頭化した。飼養戸数の最も多かったのが昭和37年(1962)の6,840戸で,その後減少し続け,頭数は昭和48年(1973)には7万2,700頭と,かなり急速に多頭化が進み,昭和52年(1977)には1戸当たり平均71頭となっている。
 昭和37年(1962)ごろの肉豚生産は,養豚経営が零細であったため,豚肉価格の動きによってかなりの増減があった。肉豚総生産頭数は5万2,000頭で,このうち県内で屠殺されるものは約3万3,000頭(枝肉1,983トン),1万9,700頭(約38パーセント)が県外に出荷された。肉豚出荷の25.5パーセントが系統機関による共同出荷で,残りの74.5パーセントは家畜商の庭先取引であった。昭和30年代後半の豚の飼養状況は表3−1−6のとおりであった。

 飼養戸数は昭和40年(1965)には3,800戸であったが,同54年(1979)には920戸と大幅に減少し,一方頭数は8万2,700頭となり,1戸当り90頭と飛躍的な規模拡大となった。
 昭和40年代の子豚の生産状況は表3−1−7のとおりである。昭和38年(1963)から漸増して昭和47年(1972)には14万8,891頭と大幅に増えた。その後多少減少傾向にあったが,昭和53年(1978)には戦後最高の14万9,158頭に達した。また価格も遂年高騰し,昭和51年(1976)には2万5,783円と最高となった。昭和54年(1979)における市町村別の豚飼養頭数は図3−1−3のとおりである。