既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第4章 養鶏の発達

第2節 養鶏の展開

1.採卵養鶏の発展

(4)昭和戦後期における採卵養鶏

  1 飼養羽数等の概要

 戦後の一時期,経済界のインフレによって,鶏卵の価格は高騰し飼育熱を高めたが,飼料の入手難,戦災地における建築資材の不足,物価の高騰,さらに農村においては鶏舎が疎開者の住居となっているという状態などにより家庭的な小羽数副業養鶏が普及した。
 農家が5〜6羽飼うことは,自家の食用に供した残りをためておいて,棒手振りと称する鶏卵の仲買人に売って,小遣い銭を取るという程度であるが,飼料を自給し鶏糞を肥料として利用するには,30羽程度が副業養鶏として適した羽数であって,収益も大きいとして一般に普及していた。しかし,このころは濃厚飼料の入手が困難で,種欄を出荷する者に配給される程度であった。
 昭和21年(1946)10月には,養鶏復興の機運が盛り上がってきて,岡山県など1道9県連合主催による全国養鶏大会が開催され,養鶏復興対策が決議された。
 戦後税制の新しい所産として登場した畜産課税は,畜産の復興に大きな衝撃を与えた。ことに,その創定当初養鶏についての所得の標準は,過大評価されており,さらに地方事業税の付加の対象とされたので,二重あるいは三重にも,その税負担が重くなるという結果となり,24年度には,このため飼養羽数を減らすか,全くやめめものさえ現われた(昭和23年の46万4,222羽が昭和24年には44万5,462羽と対前年比95パーセントに減少)。
 所得標準の算定に当って税務当局は,@農家養鶏の場合は,飼料費の20〜30パーセントは自給飼料でまかなうものとして所要経費としては認めない。A自家で生産した鶏糞・鶏卵を,自家用として消費しても所得から控除することを認めないとし,さらに,36年度から4羽以上の飼育は税の対象とする,という方針をとった。これに対して,小羽数養鶏を課税対象から除外することと,税額算定の適正化を,他の畜産とともに運動し,成果を納めた。
 昭和23年(1948)5月,岡山県では「岡山県農業計画委員会」を設け,同年12月まで種々討議を重ねて,「岡山県農業振興計画」を県企画室によって,24年(1949)3月公表した。これによる家畜別増産対策概要のうち,「家禽」の項を次に掲げて,当時の養鶏についての認識を新たにしよう。

  (1) 方針

 国民の日常生活上最も普遍的に利用し得る蛋白質給源としての鳥卵の増産及び食肉資源培養を期し,併せて農業経営上の要素としての養鶏,養鶩の普及増殖を目標とし,差当っては飼料事情に鑑み,優良種禽の確保に重点を置き,将来の発展に備えると共に,農村における自給養鶏の普及に努める。
 なお,鶩については主として沼沢地帯及び水田地帯に普及を図る。

  (2) 増殖目標

 昭和28年において,種鶏羽数を6万5,000羽と増加し,且つその生産率の向上を期して総羽数を96万2,000羽,鶩に付いては種鶩羽数を1,500羽に増加し,且つその生産率の向上により総羽数を1万1,500羽に増殖することを目標とする。
 なお,産卵能力の向上をも考慮して,右増殖の結果鳥卵6,000万個並びに鳥肉520トンの生産を期するものとする。即ち  

  (3) 改良増殖対策

(イ)県種畜場の施設の拡充を図り,種卵種雛の払下を増加する。
(ロ)指定種鶏場の内容の充実刷新を図り,産卵調査の励行,白痢保菌鶏の徹底的淘汰を行ふ。
(ハ)国立種畜牧場からの払下により資質の向上を図る。
(ニ)孵卵事業の合理化により,優良雛の生産を図ると共に,雌雄鑑別技術の向上を期する。
(ホ)農家の自給養鶏を普及するため共同育雛の奨励を行ふ。
(ヘ)養鶩については可及的地区を設定して奨励し,指導の徹底を図り,特に水田飼育の普及を期する。

 昭和25年(1950)3月をもって,特需鶏卵の廃止,飼料配給公団の廃止による飼料統制の撤廃は,養鶏推進に明るさを与えることになり,これによって家庭的副業養鶏は企業的農村養鶏の進展に押されて減退して行った。岡山県下の養鶏熱は,飼料の出回り,鶏卵の需要増に伴う卵価の上昇,それに加えて農家の現金収入への魅力も手伝って,昭和26年(1951)ごろから急速に盛んとなり,昭和28年(1953)には産卵個数2億個に達し,全国第4位となった。
 一方,養鶏生産の根源である飼料に対しては,昭和27年(1952)3月「飼料需給安定法」(法律第356号)が公布され,昭和28年(1953)には「飼料の品質改善に関する法律」(法律第35号)が公布され,翌29年(1954)1月1日から施行され,これのバックアップと鶏卵の需要増加によって,養鶏は産業として飛躍的に伸展した。
 このころの採卵養鶏は,戦前の延長のような状態であって,軒下や庭先養鶏が過半数であり,1戸当たりの平均飼育羽数も10羽以内であった。飼料は種鶏など特殊なものを除いては,一般的に自給飼料がおもに使用されていた。養鶏は耕種農家と結びつけていた採糞養鶏で,「鶏1羽は鶏糞1俵」ともいわれ,肥料の必要性と肥料費の節減のため,耕作規模の大きい農家で飼養羽数も比較的多く,とくに,裏作収量との関連は大きかったようである。
 岡山県産鶏卵の主な移出先である阪神市場において,移出鶏卵の荷造り(選卵,量目など)および品質(鮮度など)の改善向上を図り,定時定量出荷することが,その声価を高め,進んで銘柄を確立する上に重要であるということを,市場関係業界の意見などから認知し,昭和32年(1957),岡山県移出鶏卵検査協会(構成員は岡山県養鶏組合連合会(県養鶏連)・岡山県経済連および岡山県鶏卵移出商業協同組合)を組織して,阪神市場に出荷している鶏卵の荷造り,品質の向上のため「岡山県移出鶏卵品質荷造り改善共励会」の第1回を阪神市場で実施した。この共励会は,昭和47年(1972)までは消費地で,48年(1973)以降は県内で年1回実施して今日に至っている。その受賞団体は表4−2−24のとおりである。

 昭和35年(1960)4月に養鶏振興法(法律第49号)が,翌36年(1961)6月に農業基本法(法律第127号)が公布された。これに基づく農業構造改善政策により自立経営農家の育成を中心とする各種の制度が確立された。養鶏農家も個人経営または協業経営,農業生産法人など種々の経営形態により,それぞれ規模を拡大し,省力化の方向に積極的に進んで行った。
 岡山県では,昭和37年(1962)から実施した農業構造改善事業において,養鶏関係では高松町(現岡山市高松),後月郡芳井町,津山市および真庭郡落合町で実施したが,これらが核となって,その地域で養鶏が発展した。また,これに対して農業制度資金の果した効果の大きかったことが,当時の農業近代化資金の利用状況からみても,十分に理解できる。(表4−2−25参照)

 このころ,岡山県の養鶏施策の基本方針として,「適地に適正な規模の養鶏の普及をはかる。そのために施設の改良および技術の向上による経営改善を進め,農協近代化地域に重点をおいて1集団3万羽から10万羽の団地形成を計画し,合理的な生産と流通販売体制の整備につとめている。また全国的な初生雛の供給県として,種鶏の改良増殖についても並行して施策を進めるほか,近年,盛んになりつつある肉用鶏種の育成および普及も重点的に推進している」とある。昭和36年(1961)から40年(1965)までの増殖計画は,表4−2−27のとおりである。この増殖計画と表4−2−29の成鶏雌羽数とを比較すると,計画を上回る実績を示し,昭和40年(1965)においては計画羽数の140パーセントに達し,採卵養鶏のめざましい伸展がうかがわれる。さらに,昭和41年(1966)になると,40年(1965)の実績をふまえて,県は50年(1975)目標の振興計画を表4−2−27のとおり策定した。

 計画策定については,「鶏卵の昭和50年における県内需要は,3万トン弱と見込まれるが,これに種卵の需要を見込み,京阪神地域の需要の増大による3万6,000トンの県外出荷を期待すると,総需要は6万7,000トンと推定される。この需要に応じた生産を達成するため,鶏の総羽数の目標は,概ね760万羽とする。この目標を達成するため,鶏卵生産調整,価格安定対策,鶏卵規格取引の促進,鶏卵の学校給食などを行なう」としている。この目標設定に対して現在でも,実現していないのは,鶏卵の学校給食である。昭和50年(1975)における鶏卵の生産量は,6万7,581トン(4−2−29参照)であり100パーセントの達成率となっている。
 外国鶏の日本への上陸は,昭和37年(1962)ごろからである。外国鶏の導入は功罪いろいろとあったが,飼養管理技術の浸透に効果を与え,大規模経営に次第に導入された。
 岡山県では,昭和36年(1962)に池田牧場がエームス・インクロスを導入したのが最初である。これが契機となって外国鶏の輸入が先を争って開始された。当時,輸入された銘柄は,アバーエーカー,キンバー,ハイライン,デカルブ,デムラー,シェーバースタークロス,ハンソンなどであった。これらのうち現在でも販売されている銘柄は少ない。表4−2−28のとおり昭和42年(1967)に普及率が50パーセントを越えてからは,飼育されている採卵鶏のほとんどが外国鶏で占められる状態となった。  
 しかしながら,この状況に対する反省から,国の改良施設を中心とした国産鶏の改良組織を整備することとなり,岡山県養鶏試験場も組織の一員として加わり,新しい系統の作出に努めた結果,ノーリン101が作出された。この鶏の普及施設として昭和46年(1971),岡山県養鶏農業協同組合(組会長 山上茂吉)が国の補助事業として,国産種鶏増産センター(赤磐郡赤坂町)を建設し,国産鶏の普及に努めることになった。今後の発展が期待されるところである。
 昭和40年代に入ると,鶏飼養羽数の増加と生産性の向上によって,鶏卵生産量は消費量を超え,米国に次いで世界第2位の鶏卵生産量となった。また,岡山県においても,農業粗生産額の中で,鶏卵は昭和40年(1965)以降,米についでつねに第2位の生産額を上げている。
 インフレの進行にともなう所得上昇率に対応するためと,生産コストの引上げおよび経営単位としての収益の増加を追求して,経営合理化のための規模拡大の必要性から,飼養戸数の減少に反比例して飼養羽数は表4−2−29のとおり昭和45年(1970)まで年々増加した。したがって,1戸当たりの飼育羽数は昭和40年(1965)に52.9羽であったものが,50年(1975)には,274羽となっている。この傾向は今後もなお急速に進展するものと考えられる。
 岡山県養鶏試験場の開場10周年を記念して,昭和41年(1966)11月17・18日の両日にわたり,「日本養鶏近代化展示講演大会」を岡山県,日本養鶏協会および岡山県養鶏協会の共催により,岡山市津島の県体育館において開催した。この大会においては,養鶏関係器具,機械,薬品,飼料,雛などを展示するとともに,農林省畜産局食肉鶏卵課長福島量一と社団法人中央畜産会指導職木村唯一の講演が行われた。また,この大会において,大会会長岡山県知事加糖武徳から,養鶏功労者として,岡山市甲浦近藤熊二郎,井原市高屋町鳥越久士,津山市草加部須江定美および吉備郡高松町渡辺昇らが表彰され,同時に岡山県養鶏試験場の永年勤続者として,吉備郡高松町糸島誠治,岡山市西長瀬難波寿および岡山市平田中島浪子が表彰された。
 この大会が開催された当時は,養鶏経営は規模拡大の過程にあり,著しい伸びを示している時であって,飼養管理および鶏糞処理の機械化に非常に関心が高く,関係者の絶大な協力もあって,盛大にして有意義な大会であった。参集者は,県内はもとより,遠くからは関東地方や九州その他各地から1万人を越す盛況であった。この大会に参加した関係者は,器具機械関係25社。薬品関係15社・飼料関係18社・孵卵場関係16社・鶏卵関係6社・鶏肉関係4社・報道関係7社・その他8社・合計99社であった。 
 なお,この大会の開催にあたり,岡山県養鶏試験場開場10周年記念誌を発刊し関係者に配布した。

  2 養鶏経営と卵価

 鶏卵の価格動向をみれば,表4−2−30のとおりである。第二次世界大戦後昭和24年(1949)ごろまでの卵価は,冬場1個25円,夏場1個12〜13円であったという。生産者価格が大幅に伸びたのは,昭和49年(1974)で,これは,石油ショックによる諸物価の高騰によるもので,前年比で125.3パーセントの伸びを示している。これに連動して岡山市内における小売り価格も127.7パーセントの伸びとなっている。その後は,ほぼ安定的な値動きを示している。一方,鶏卵生産費の動向は表4−2−31のとおり鶏卵100キログラム当たりの第2次生産費について見ると,昭和46年(1971)に2万円を超えているが,49年(1974)までは,おおむね微増減の繰り返しで推移していた。ところが,50年(1975)になると,飼料費の高騰などにより一挙に2万5,000円を超え,その後横ばいで推移している。

 昭和39年(1964)に,岡山県経済連は,全国でも初めて「鶏卵価格安定共助制度」を発足させた。その概要は,@対象とする農家は,成鶏を常時300羽以上飼育し,鶏卵,くみあい養鶏飼料,その他の養鶏資材について系統を全面的に利用するものであること。A単位農業協同組合は取扱数量に応じて,鶏卵1キログラム当たり1円を拠出し,岡山県経済連は,毎年度予算の範囲内において一定の額を拠出して基金とする。B販売価格は,全国販売農業協同組合連合会大阪市場の一級品高値(容器付の価格)を基準とする。C補償価格は,毎事業年度ごとに生産費を基礎に運営委員会の議を経て,月別に決定する。D鶏卵価格安定委員会を16名で組織する,というものであった。昭和39年度の月別鶏卵補償価格表は,表4−2−32のとおりであった。この算出基礎は,鶏卵1キログラム当たり生産費158円を,月別産卵率(年間平均65パーセント)により月別に算出し,これに集出荷,選別および販売手数料等を1キログラム当たり15円加算したものである。関係者の期待を担って発足したこの制度も,卵価の低迷と補償価格の高水準のため1年を経ずして廃止することになった。しかし,これが契機となって,全国的な卵価安定基金が創設されることになった。

 鶏卵の需給均衡のくずれにより,長期にわたって卵価の低迷を招くようになったので,鶏卵の生産出荷調整について指導するとともに,卵価の補てんを行うため,昭和41年(1966)9月10日,社団法人・全国鶏卵価格安定基金(農協系)が,ついで,昭和44年(1969)3月26日,社団法人・全日本卵価安定基金(商社系)が設立された。53年(1978)3月末日における資金の構成は表4−2−33のとおりである。本県の加入団体は岡山県経済連と烏城養鶏農業協同組合であって,年次別の加入農家数,契約数量,補てん基準価格,補てん金額は表4−2−34のとおりである。

 岡山県は,両基金に対し,それぞれ400万円の出資を行い,基金の運営に対して積極的に関与している。さらにこの基金活動を補完するため,昭和48年(1973)には,鶏卵価格安定対策事業(予算額1,295万2,000円)を実施した。その概要は次のとおりである。県内の養鶏農家の手取り価格は,大阪市場の一級品高値のキログラム当たり約15円落ちで仕切られている。従って,卵価安定基金の定める補てん基準価格によって補てんを受ける場合は,大幅な手取り価格の低下をきたすので,卵価安定基金の加入者を対象に,昭和48年度はキログラム当たり163円を下回った23日間,キログラム当たり15円の3分の1を助成した。 
 この事業は,昭和49年度も実施し,キログラム当たり202円を下回った114日間,キログラム当たり21円の3分の1を助成した。総事業費は4,528万7,000円であった。
 このような情勢の中で,同年2月23日,全農ほか関係団体は,全国鶏卵需給調整協議会を開き,種々検討の結果,同年同協議会を常置した。
 昭和50年(1975)にいたり,昭和48・49年(1973〜74)の卵価の大暴落により,卵価安定基金が大幅な赤字となったため,この対応策として生産者積立金を,従来のキログラム当たり1円から4円に,49年(1974)7月から増額していたので,この積立金の内1円以内を助成することにした。総事業費は3,883万9,000円であった。この事業は,昭和54年度まで継続して実施している。
 国は,卵価の安定基金の活動のみでは不十分であると判断し,株式会社・全国液卵公社を昭和46年(1971)6月に設立した。この全国液卵公社は,鶏卵価格が異常に低落した場合に鶏卵を買い入れて液卵を製造し,これを保管および販売することによって,鶏卵価格の安定を図るとともに,国内の液卵生産流通体制の整備をはかることを目的としたもので,岡山県も昭和47年(1972)700万円,51年(1976)850万円,合計1,550万円の出資を行なっている。
 畜産物の価格安定等に関する法律(昭和36年11月・法律第183号)に基づく鶏卵の調整保管を,岡山県内では初めて,烏城養鶏農業協同組合(組合長 池田隆政)が次のように実施した。保管数量は,昭和49年(1974)8月,2,430キログラム,昭和52年(1977)7月,3万1,010キログラム,53年(1978)8月7,750キログラムであった。
 このように卵価安定基金や液卵公社の設立,鶏卵の調整保管と,卵価の安定のため,国・県・関係団体などが一致団結して努力を続けたが,鶏卵の需給事情を好転させるまでの効果が十分現われなかったので,鶏卵の需給調整が行なわれるようになった。すなわち国は,昭和49年(1974)から採卵鶏を3,000羽以上飼育しているものは,当分の間これの増羽を凍結する方針を決定した。その後,昭和53年(1978)に凍結対象羽数を5,000羽に引き上げ,凍結は現在でも続けられている。
 岡山県でも,昭和49年(1974)に岡山県鶏卵需給調整協議会(会長・池田隆政)を設立するとともに,地区,市町村に協議会を設立し,鶏卵の需給バランスの保持に努めている。

  3 ニューカッスル病対策

 昭和42年(1967)3月,鶏のニューカッスル病が津山市内で発生し,続いて勝田郡勝北町および勝央町,英田郡美作町,西大寺市(現岡山市),邑久郡邑久町,岡山市などに蔓延し,発生総羽数は,10万5,542羽で,県内の養鶏家に相当の被害を与えた。被害農家の救済措置として,岡山県はニューカッスル病対策の再建措置として利子補給を行なった。融資総額は4,209万円で,対象農家は,被害羽数300羽以上のものとし,融資限度は個人200万円,法人1,000万円以内であった。雛導入資金として,採卵用(60日齢以上)1羽300円,ブロイラー素雛1羽65円。育成資金として,採卵鶏1羽400円,ブロイラー1羽135円であった。雛導入資金は無利子,育成資金は年3分5厘で,償還期間は4カ年(措置1カ年を含む)であった。
 続いて,昭和43年(1968)1月,岡山市田中地先,岡山県養鶏試験場,総社市,邑久町などにニューカッスル病が発生したため,前年度に引き続いてニューカッスル病再建のため利子補給を実施した。融資額は380万円であった。

  4 飼養管理技術の進歩

 第二次大戦後の,飼料事情のひっ迫も,昭和24・5年(1949−50)ごろから好転しはじめ,養鶏界も逐次活気を取り戻して行った。海外の養鶏先進国,なかでも米国からの種々の新しい機械器具や技術の導入が,とくに活発になったのは昭和30年代半ばからで,外国鶏の輸入の増大と並行して盛んになった。終戦直後からの10数年間は国内の養鶏の復興期であった。

  平飼いからバタリー養鶏へ

  昭和10年(1935)前後からバタリー飼育が少しずつ行われていたが,第二次世界大戦後の養鶏の復興に伴い,バタリー方式が急速に普及しはじめた。当初は群飼方式が多く,3尺×6尺の檻を二段に重ねて,従来の鶏舎内へすえていた。その後,間もなく食羽癖防止や産卵調査の目的で単飼バタリーが増加した。バタリー養鶏法はもともと用地を立体的に使用し,単位面積当たりの飼育羽数を増やす目的で考案されたものである。鶏を檻に入れてこれを積み重ねる方式は,昭和10年(1935)ごろから一部で行われたとされているが,本格的には昭和20年代半ば以降のようである。全国的に有名なのは,戦前65万羽の鶏を擁した愛知県豊橋市の養鶏は,空襲により壊滅状態となったが,戦後の復興において新しく「豊橋式バタリー養鶏法」を打ち出して全国の養鶏家に注目されたことである。バタリー方式は,雛の育成から産卵鶏まで,鶏の一生を通じて土を踏ませない飼い方として,@狭い土地で多くの鶏が飼える,A病気にかかりにくい,B鶏ふんが完全に採取できるなどをキャッチフレーズに,バタリーの寸法・構造は多少のちがいがあっても,手軽に素人でも材料の組立てができるので,全国的に普及して行った。

  急速に普及したケージ養鶏

 昭和30年(1955)ごろ,愛知県の高橋広治が,米国からケージを導入し,ケージ方式を提唱したが,その後この管理方式は急速に普及した。本県では岡山市で金網店を営む木下亀代が,昭和31年(1958)12月,最初のケージを売り出した。もちろん,当時県内には本場愛知県などから導入したケージも若干使われていたようである。その後,ケージの需要は急増し,玉島市のアサヒ飼料軽工渇ェ山市の岡山製線鰍ネども製造販売した。当初販売されたものはケージの間口1尺で3段に積み重ね,これまでのバタリーの構造とほとんど変わらず,各段の境には糞受板を差し込んでいた。このケージ養鶏の普及とともに鶏舎骨材も従来の木材から鉄骨に替り,昭和34・5年(1959−60)ごろには新築される鶏舎のほとんどは鉄骨が使われるようになり,屋根の形も従来のモニター方式のほかに鋸歯形に組立てたものも出現した。

  ウインドウレス鶏舎の台頭

 戦後から今日に至る飼育管理の変せんの中で特筆されるものはウインドレス(無窓)鶏舎の台頭であろう。ウインドウレス鶏舎は,米国ではかなり以前から研究されていたようであるが,わが国で建設して使用したのは商社系の養鶏グループが最初のようで,昭和30年代後半からである。養鶏試験場では昭和39年(1964)に種鶏舎の一部を改造して約7坪の室を作り,ケージ飼いと平飼いについてそれぞれ実験した。県内において民間では昭和40年(1965)に笠岡市の高田弘が建面積110坪(5間×22間)2階建・延220坪のウインドレス鶏舎を建設し,種鶏の飼育を行なったのが最初である。収容密度は坪当たり雌30羽と交配用の雄若干羽であった。換気方法は,陰圧換気であった。その後,県内に種鶏用,採卵鶏用,同育成用のほかブロイラー用のものが次々と採用されたが,1羽当たり設備投資額が,従来の開放型鶏舎に比べて1.5〜2倍くらいかかるので,その普及率は現在のところ必ずしも高いとはいえない。

  飼料給与方法の進歩

 第二次大戦後,飼料事情は逐次よくなったとはいえ,昭和20年代は自給飼料中心の副業養鶏がほとんどであった。自給飼料で最も多く用いられたのは,屑米,屑麦であり,これに糠類と魚粉を配合したものに,細切した青菜と水を混ぜて,練餌として1日3回程度与えていた。ただ,屑米や屑麦は夕方トマリ餌ということで,単味のまま鶏舎にバラまくこともあった。その他の自給飼料としては,甘藷が用いられ,当時の記録によると栄養的な均衡からみて甘藷の給与限界は,風乾物換算で30%とされていた。
 昭和30年(1955)ごろ富山県の窪木杉信は,「雑草養鶏」を創案した。草養鶏というものは,緑餌として与えていた青菜類,草類を通常の給与量より多量に鶏に与えて,生産をあげようというものである。昭和30年(1955)に「雑草9割活用の革命養鶏」として『鶏の研究』誌に同社主日比野兼男が掲載するにおよんで,当時の卵価安,飼料高の養鶏事情ともからんで,にわかに養鶏界の注目をあびた。この雑草を細切し,すりつぶすために多種類のチョッパーが製造販売され,本県でも井原市山下次郎は,山下式雑草粉砕機を製品化した。しかし,この雑草養鶏のブームも冬期の雑草確保,雑草の処理労力などの問題から,マスコミが大きく取り上げたわりには早く衰退して行った。

  鶏ふん処理技術の変遷

 養鶏産業の発達,なかでも農家の副業としての養鶏では,鶏ふんの肥料的価値が高く評価されていた。この状態は,昭和30年代半ばまでの農家養鶏全盛時代まで続いたが,その後鶏ふんの価値観も変化して行った。すなわち,養鶏規模の拡大に伴い,その量は極めて多くなり,乾燥処理がこれに追いつかない状態となったためである。昭和30年(1950)ごろの鶏ふんの価格は5貫目俵入りで80〜100円程度であって,採卵養鶏の収入として鶏卵・廃鶏とならんで鶏ふんは相対的に,大きな収入源であった。ちなみに,当時のバタリー養鶏で鶏ふんを上手に乾燥処理して販売すれば,成鶏1羽当たり80円前後の収入があり,おおよそ,この鶏ふん収入で更新用の初生雛購入代金が賄えるというのが,精密養鶏農家の常識とされていた。当時の鶏ふん処理は,筵干し,棚干しの2つの方法があり,当時,かなりの規模の養鶏場では棚干しが一般に行われていた。鶏ふんの火力乾燥機械が県内で使われ始めたのは,昭和40年(1965)ごろであろう。燃料は重油を使用したが,当初は脱臭装置はなかったので,乾燥機の使用時はかなり悪臭がただよった。このころから畜産公害問題が発生し始め,岡山行政監察局を通じての苦情申し出第1号が,浅口郡金光町であった。原因は鶏ふん焼却に伴う悪臭であった。ついで山陽町,和気町,井原市など県下全域に,しだいに広がって行った。鶏ふん焼却炉が市販されたのは,乾燥機よりややおくれてであった。焼却炉は養鶏家の手製によるもので,コンクリートブロックを四面積み上げ,底にロストルを置いたもので,自然式のものである。焼却炉は煙,悪臭などによる公害もあり,あまり多くは普及しなかった。昭和48年(1973)のオイルショック以後の燃料の高騰で,火力乾燥も衰退し,発酵処理やビニールハウスによる天日乾燥へと移行するものが多くなった。