既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第4章 養鶏の発達

第2節 養鶏の展開

2.採肉養鶏の発展

 (1)明治・大正時代の採肉養鶏

 明治11年(1978)岡山市に鶏屋(谷川達海の父)が開店した(吉岡三平(昭和49年)の『岡山事物起源』)とあるのが,岡山県で鶏肉に関する最も古い記録のようである。明治・大正年代は,鶏に卵を産ませ,老鶏になったりして,卵を産まなくなれば,これを肉としていた。この時代は,鶏は高価なもので,明治21年(1888)9月の『牧畜雑誌』によると,表4−2−35のとおりで,当時の米の価格が1キログラム当たりに換算して,約2銭4厘であったことから見れば,その10倍以上の高値であった。
 年代は不詳であるが,明治20年(1887)前後であろうか,石川県が全国の各府県に照会して,鶏の価格を調査したのを,表4−2−36に示す。当時の牛肉は,最高級品でも1斤(600グラム)が18銭(北海道)最低は4銭(広島県)であったことからすれば,いかに鶏肉が高価なものであったかが分かる。
 大正12−14年(1923−25)に年間5〜7万羽程度の鶏を,1羽1円位で,京阪神方面に出荷し,同時に1〜2万羽程度を1羽50銭ぐらいで名古屋・高松方面から移入していたという。
 飼養品種は,名古屋,エーコク,ミノルカ,シャモなど卵肉兼用種であって,中でも岡山(備中)エーコクとその雑種が最も多く飼われていたようで,卵の生産と鶏肉の生産は,車の両輪のようなものであったと考えられる。
 岡山県種畜場の業務報告によると,肉鶏1羽当たりの価格は,大正13年(1924)に98銭4厘,翌14年(1925)96銭4厘,同15年(1926)63銭8厘となっており,一方,種鶏1羽当たりの価格は2円ないし3円であった。(大正13年の岡山県の米価は1キログラム当たり25銭6厘であった) 廃鶏肉は比較的安い並肉で,上等な鶏肉は当時においても若鶏肉であった。雌雄鑑別ができなかった当時は,もちろん無鑑別育成であったから,外観で性別が分かるようになった雄を,肉鶏として販売できるまで飼って処分した。とくに高級肉は,去勢した雄を肥育したもので,雌雄とも肥育する場合もあった。これらの高級鶏肉だけを提供した専門料理店も各地にあった。また,ひそかに闘鶏を行うため,シャモを飼う者が案外に多かった。闘鶏で負けた鶏は屠殺され,その肉は関係者が食べるのが普通であったが,一部は鶏肉専門店へ流れていたようである。可食内臓は,モツまたはドーグと称して需要が多く,上等肉の値段で売られていた。
 この時代は,4ツ足の牛豚は食べないが,鶏肉は食べるという人が意外と多かったためか,鶏肉専門店は,かなりな店舗を持ち,盛んに取引きを行なっていたものもあった。また,相撲社会では縁起をかついで,4ツ足肉は食べないので,鶏肉消費量は多かったということで,岡山県下でも大相撲の巡業興業がかなり行なわれ,その際,力士だけでなく,会場での弁当その他に使われた食肉は,鶏肉が主体を占めていた。