既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第4章 養鶏の発達

第2節 養鶏の展開

2.採肉養鶏の発展

(2)昭和年代の採肉養鶏

 昭和年代に入ってからは,孵卵技術の進歩と初生雛雌雄鑑別技術の実用化にともなって,鑑別によって不要となった採卵鶏の雄雛を,産肉用に利用することが注目されはじめ,抜雄仕立てとして肉用若鳥に育成し,出荷することが,採卵養鶏の副業として行なわれるようになった。
 昭和2年(1927),岡山県種畜場では「去勢鶏の肥育」,「断冠と発育」の試験を行ない,さらには,鶏肉の加工方法として,これを酒粕漬や味噌漬にする試験まで行なっていた。これは,当時の関係者が抜雄の経済的な利用に努力していたという貴重な記録である。
 昭和元年(1926)から昭和10年代における生鶏の県外移出入ならびにその卸売価格は表4−2−37および表4−2−38のとおりである。

 昭和5年11月(1930),天皇陛下が陸軍特別大演習のため岡山県に行幸された。この際に岡山県種畜場が畜産物を御料品として供進しているが,肉鶏関係については,種種は,名古屋種またはその雑種で,爪鶏(雄鶏)58羽(57キログラム)キログラム当たり45銭,肥育鶏10羽,1羽当たり2円10銭,若鶏19羽,1羽当たり1円で供進した。
 このころを転機として,鶏の飼育羽数が40万羽の大台に乗り,急速に進展して行ったので,採肉鶏の生産も同時に伸びたものと考えられるけれども,消費量は少なく相場も安定していなかったので,ある程度は投機的なものであった。
 昭和13年(1938)ごろの食鶏は,県内で消費されるものの外に,県外へは京阪神,呉,北九州方面に出荷されていて,その数量は表4−2−39のとおりであった。その生産量と消費量とが年とともに減少しているのは,昭和12年(1937)7月7日勃発の日華事変から,次第に戦争に深入りする時代を反映したものであろう。
 昭和14年(1939)3月,岡山県の斡旋で,孵卵業者の団体と雌雄鑑別協会岡山支部との間に嘱託鑑別制度が設定された。しかし,当時の初生雛の年間生産約60万羽の半数が雄雛としても,当時は孵化シーズンが春季の約3カ月に片寄っていて,一部の業者が秋季に僅かながら孵化した程度であったので,鑑別雄雛の利用は季節的な制約を受け,廃鶏の肉利用は十分ではなかった。
 昭和16年(1941)10月20日,農林省告示第782号をもって,肉類の最高販売価格を指定した。これによりいわゆる鶏肉の公定価格が制定された。決定された生産者価格と小売価格とが実勢価格とかけ離れた不合理性や,戦時下の飼料不足などにより,鶏肉の生産は減退した。そのため闇取引きが横行し,悪質な食鶏取扱商人が増加して,食鶏の取引きに混乱を生じたため,養鶏家の保護と,戦時下における食糧の配給を円滑に行なうことを目的として,岡山県養鶏組合連合会が,全県的に食鶏の共同集出荷と処理を行うことになり,予算額4万9,000円で同年4月から事業を開始し,食鶏共同処理場を,岡山市(集荷範囲・24市町村),倉敷市(同35市町村),金光町(同8町村),笠岡市(同6町村),井原市(同4町村)および矢掛町(同5町村)の6カ所に設置した。この施設の運営に当たっては,食鶏の出荷統制,集荷方法,計理集鶏人従業心得,病鶏の規格(重量の削減率)など細かい規定を定めるとともに,昭和16年(1941)4月20日,岡山県鶏肉移出許可規則を制定し,同27日から実施した。

  集鶏人従業心得

(1)勤務
(1)〜(3) 省略
 (4)集鶏人ハ常ニ証明書ヲ所持シ養鶏家ノ要求アリタル時ハ之ヲ提示スルコト
(2)集鶏
 (1)指定集鶏地区外ニ於テセザルコト但シ何レノ処理所ニモ属セザル地区ニ於テ集鶏スル場合ハ此ノ限ニアラス
 (2)責任地区ハ少クトモ隔日ニハ必ス巡回スルコト
 (3)集鶏ニ際シテハ目方ヲ厳重ニ秤リ正確ヲ期スルコト
 (4)病鶏ハ規格ニ照会シ評価ノ適正ヲ期スルコト
 (5)鶏代ハ鶏ト引換ニ生鶏百匁ニ付三六銭七厘替ニテ支払フコト但シ特ニ定メタル地区ニ於テハ支払ウ要ナシ
 (6)鶏ヲ受取リタル時ハ必ス食鶏蒐集伝票ニ記入シ署名ノ上養鶏家ニ手交スルコト
(3)鶏ノ引渡
 (1)蒐集セル鶏ハナルベク速ニ処理所ヘ持帰リ業務主任ニ引渡スコト,如何ナル事由アルモ処理所以外ヘ売却セサルコト
(2)〜(3) 省略
(4)其ノ他
(1)〜(2)省略
 (3)駄鶏ノ鑑別ハ適正ヲ期シ故意ニ良鶏ヲ淘汰蒐集スルガ如キコトハ絶対ニナサザルコト

  岡山県鶏肉移出許可規則(昭和16年4月20日)

 第1条 本令ニ於テ鶏肉ト称スルハ食鶏,屠鶏及正肉ヲ謂フ
 第2条 販売ノ目的ヲ以テ鶏肉ヲ県外ニ移出セントスル者ハ第一号様式ニ依ル移出許可申請書ヲ知事ニ提出シ許可ヲ受クベシ
 第3条 移出ノ目的ヲ以テ食鶏ヲ屠殺処理セントスル者ハ第二号様式ニ依ル食鶏屠殺処理許可申請書ヲ知事ニ提出シ許可ヲ受クベシ
 第4条 第二条及第三条ノ規定ニ依リ許可ヲ受ケタル者申請書ニ記載ノ事項ヲ変更セントスルトキハ知事の許可ヲ受クベシ
 第5条 第二条ノ規定ニ依リ移出許可ヲ受ケタル者鶏肉ヲ移出セントスルトキハ其ノ容器ノ外部ニ名称,正味重量,皆掛重量及移出者ノ住所氏名ヲ明記シタル証票ヲ添附スベシ
第6条 第二条ノ規定ニ依リ移出許可ヲ受ケタル者移出ヲ為シタルトキハ其ノ都度直ニ第三号様式ニ依ル移出報告書ヲ知事ニ提出スベシ
 第7条 第三条ノ規定ニ依リ食鶏屠殺処理ノ許可ヲ受ケタル者ハ第四号様式ニ依ル食鶏屠殺処理成績報告書(旬報)ヲ知事ニ提出シベシ
 第8条 運送業者又ハ運送取扱営業者ハ第二条ノ許可ナキ鶏肉ノ県外移出取扱ヲ為スコトヲ得ズ
 第9条 知事ハ第二条又ハ第三条ノ規定ニ依ル許可ヲ受ケタル者ニ対シ本令ニ定ムルモノノ外必要ナル報告ヲ徴シ又ハ当該官吏ヲシテ商品,帳簿其ノ他ノ検査ヲ為サシムコトアルベシ前項ノ場合ハ之ヲ拒ムコトヲ得ズ
第10条 本令ニ違反シタル者ハ拘留又ハ科料ニ処ス(以下様式等は省略)

  2 昭和戦後期における採肉養鶏

(1)飼養羽数等の推移

 戦後直後の,極端な物質の不足と戦後の混乱期を経て,25年(1950)ごろから国民生活も安定しはじめ,これに伴って採肉養鶏も急速に発展をみせることになった。しかし,当時は採卵養鶏が主体をなしていたため,白色レグホーン種または白色レグホーン種と卵肉兼用種の1代雑種が多かったので,それらの抜雄が肉用鶏として利用されていた。昭和30年(1955)前後から,採卵鶏として雑種鶏が主流を占めるようになり,このことは,経営規模の大きい養鶏場ほどその傾向が強かった。
 一方,昭和33年(1558)ごろの大阪市場における肉鶏相場では,白色レグホーン種より雑種の方が,貫当たり50円(キログラム当たり14円)以上高く取引されていた。また,白色レグホーン種の雄では,10週間の育成で生体重1キログラムに達せず,12週育成で需要の大きい3羽貫(当時の取引き単位で3羽で1貫であること)とすることが不可能であった。このような理由で,雑種の抜雄が採肉鶏の主体をなすようになった。また当時は,季節的な需要差が大きく,秋冬季には孵化場へ雛の注文が集中して,雛価格が雑種20円〜25円ていどであったとき,白色レグホーン種は5円でも売れ残ることが多かった。
 肉用鶏についての統計は,表4−2−40のとおり,昭和31年(1956)から現われている。これによれば,同年の生産羽数が10万羽であったものが,昭和41年(1966)には,270羽,昭和51年(1976)には,923万羽と,20年間に実に92倍にも生産が伸びている,さらに,昭和53年(1978)には,1,000万羽の大台を超えている。
 価格の動きは,表4−2−41のとおりである。廃鶏の生産者価格は,昭和40年(1965)に1キログラム当たり139円であったものが,52年(1977)には59円と半値以下の相場になったのに対し,採肉鶏の方は,この間198円から285円に44パーセントの値上りを示し,消費需要が廃鶏肉から若鶏肉に移ったことを示している。卸売価格および小売価格も,ほぼ同様な傾向で推移している。

(2)飼育管理技術の進歩

 昭和20年代後半における採肉養鶏は,採卵養鶏の副業であった。白色レグホーン種と採卵用雑種の鑑別雄雛を,近くの孵卵場から50〜100羽程度を無料でもらってきて,40日齢位まで,箱型育雛器で育て,90日齢位までバタリーで飼い,生体1貫目当たり120円程度で出荷し,60円の粗利益を得るというものであった。当時の飼料は,一般には採卵鶏の残餌や,雑穀などを適当に使用していたものであるが,配合飼料を給与したものは,肉付きが良好ということで,1貫目当たり50〜100円高く買われていた。
 昭和30年(1949)に至り,それまで無料で入手できた雛が,1羽当たり1−5円位でないと入手できなくなった。育雛器も立体式育雛器となった。しかし,育成率が悪く,胸に傷ができて,商品価値が低かった。また,第二次世界大戦の戦前,戦中をとおして交流の多かった中国や朝鮮半島の影響で,オンドル式の育成舎が各地に散在していたが,いずれも小規模で,短期利用のものが多かった。

図4-2-2 オンドル式床面給温鶏舎
注:久米郡中央町岡山県北部ブロイラー提供による

図4-2-3 3階建ブロイラー鶏舎(津山市皿山)
注:水田ポートリーファーム提供

 昭和33年(1958)にブロイラー産業研究所を箱根小涌ホテル内に設立した駒井享が,引き続き東富士に,大規模な床面給温育成舎を建設した。この影響を受けて,翌34年(1959)ごろから県下でも平飼育成が散見されるようになった。飼料も,ブロイラー用の配合飼料が販売され始め,出荷日令は70〜75日に短縮された。
 昭和40年(1965)ごろに,県北部を中心にして,オンドル式床面給温鶏舎ができ始めた。鶏舎はカマボコ型で,床面に煙道を作り,オガクズ等を燃料にして加温するもので,1棟に1,000羽程度が飼育されていた。当時は温源費が安く,育成率もよかったので,かなりの普及をみた。しかし,大規模な飼育管理に難点があったので,次第に減少している。しかし,最近の石油類の品不足と価格の高騰,省資源運動などにより,オンドル式床面給温鶏舎の見直される時代が来たと考えられる。
 昭和48年(1973)に,川上郡川上町に常時10万羽飼養の大型ブロイラー団地が誕生した。続いて御津郡加茂川町に同様な規模の団地が造られた。当時の鶏舎は,ウインドウレス,床面給温,1棟1万羽飼育のものが標準的な規格であった。続いて,津山市,阿哲郡哲多町などに大型団地が造られるようになり,県内の肉用鶏生産は伸びている。
 飼育管理施設の変化とともに,見逃してならないものに雛の品種の問題がある。昭和30年(1955)ごろは,若鶏肉生産用としてよりも,採卵用を優先していたので,肉用種の輸入は,国の許可を得ることが困難であった。また,僅かに輸入した肉用種も,卵用種とは全く飼育管理が異なるということに無知であったので,その能力を充分に発揮させることができなかった,と福田種鶏場の小野登志男は残念がっている。米国でロードアイランドレッド種から肉用種として改良されたニューハンプシャー種が,わが国では卵肉兼用種として受けとめられ,昭和26年(1951)ごろから大量に輸入され,繁殖に供された。これは,多産性も進歩したので,これを肉用種鶏の雌系として利用することが多くなった。その場合の雄系としては,英国でゲーム用として飼われていたダークコーニッシュを,米国で肉用種として改良したレッドコーニッシュや,白色コーニッシュが利用され,準専門的な銘柄として,かなり生産された。それと平行して雌系に白色ロックを使った専用種も僅かに生産されたが,一般に認められるまでには,なお時日を要した。
 昭和34年(1959)ごろから,大洋漁業が飼料拡販のため,これらの準専用種や専用種の育成を農家に委託して,仕上げられたブロイラーを買い上げる事業を創設した。これがブロイラー・インテグレーションの創始である。
 昭和38年(1963)ごろから肉用種鶏の輸入が増大した。しかも,単に雛の販売にとどまらず,それらの輸入銘柄を中心とした,商社,飼料メーカー等によるインテグレーションが続出するようになった。
 岡山県養鶏試験場では,肉専用種をアメリカから昭和35年(1960)に,153羽,その翌年に240羽を導入した。福田種鶏場においても,昭和28年(1953)に,白色ロックを,戦後わが国で最初に導入した。さらに,昭和33年(1958)に,白色および褐色コーニッシュを導入した。このように官民協力してブロイラー素雛の改良に努力している。

(3)採肉鶏の流通合理化

 昭和15年(1940)岡山県養鶏組合連合会が結成された。これは戦時下の統制団体としての機能を持ったものであった。戦後,昭和27年(1952)に岡山県養鶏農業協同組合連合会(県養鶏連)が結成された。この団体は食鶏の処理加工・素雛の導入等を行なっていた。このころの処理能力は,1日100羽程度で,すべて地場消費向けであった。
 昭和30年(1955),県養鶏連が,関西では最初に屠体出荷の有利性に着目し,神戸市内の中華料理店その他に,食鶏(屠体)の直接出荷を行ない,業界で物議をかもした。その背景としては,当時の鶏肉の卸売価格が安値であったのと,荷受業者の買いしぶりや買いたたきが相ついだので,生産者の利益擁護の立場から,荷受業者を経ないで,消費に直結するものが多く,これによりリベート要求等の不純な習慣を排除することができた。また屠体(中抜き)取引きを原則とし,生産地で処理するので無駄な経費がかからなかった。当時の荷受業者は,零細な経営で,手作業を主としていたので,1羽当たりの所要経費は大きく,それを生産者に転嫁しようとしていた。とくに,生体取引きの場合は,運賃諸掛け,事故等の負担のほか,目減り,不合格鶏等と称する負担を,すべて生産者負担としたので,生産者は,まず,生体取引きの拒否を取引き改善の突破口としたのである。当時の取引き規格は表4−2−43のとおりであった。
 この時代から,県下の養鶏家も,ブロイラー産業に着目した模様で,昭和33年(1958)には,県下の生産者代表が京阪神の食鳥取扱業者と懇談会を開いて,品質の改善,出荷方法等について協議を行なっている。
 岡山県養鶏農業協同組合の山上茂吉組合長,小野登志男参事はブロイラー産業が今後,大幅な伸びを示すことに着目した。そして岡山県の立地条件が,当時は道路事情も悪く,京阪神市場に遠いこと,さらには,市場価格が不安定であることなどのため,適当な出荷調整が必要であるとして,県内に大型の冷凍施設の設置を提唱した。これに呼応して,岡山県ではブロイラーの計画生産および処理販売の合理化対策について検討し,昭和33年(1958)に,食鳥用の冷蔵庫を民間団体に設置させることとし,総事業費1,000万円に対し,県費補助金250万円を計上した。
 このため岡山県冷凍利用農業協同組合を,昭和34年(1959)2月に設立し,事業の実施計画を樹立した。ところが設備資金の調達について,当時はまだブロイラーに対する一般の認識が十分でなかったので,農林中央金庫岡山支所が融資について難色を示した。このことから,岡山県農協中央会が,食鳥の取扱はを円滑に行なうため,岡山県経済農業協同組合連合会(県経済連)・岡山県冷凍利用農業協同組合・県養鶏連の3者の食鳥部門を統合して,1つの機関を設立するよう提案した。これによって岡山県養鶏加工農業協同組合連合会(県養鶏加工連)が同年5月に,出資金460万円をもって設立された。

 県養鶏加工連の流通機構を図示すると図4−2−4のとおりであった。県経済連は,おもに生産部門を分担し,県養鶏加工連は,食鶏の買入れ,屠体処理・出荷を行うとともに,屠体を冷凍保管して出荷調整を行うことにより,これを有利に販売する業務を分担した。昭和34年(1959)中の取扱量は,ブロイラー10万羽,廃鶏3万羽であった。36年(1961)には,ブロイラー23万羽,廃鶏5万羽となり,県下のブロイラー生産量の約40パーセントを取り扱うまでに成長した。このようにして,県内ブロイラー産業のリーダーとして活動を続けてきたが,施設が老朽化し,成長を続けるブロイラー産業に十分対応することができなくなったので,国の補助を得て成鶏肉処理加工合理化モデル施設を設置しようとした。昭和47年(1972)から用地交渉に取りかかったが,土地取得ができず計画は流産となった。時を同じうして,県養鶏加工連のある土地の所有者である県経済連が,この土地を販売することになったので,加工場を閉鎖して,系統出荷されるブロイラーは,県経済連が一括して,岡山県北部ブロイラー協同組合へ生鳥で販売契約することとし,昭和52年(1977)に,県養鶏加工連は18年間に及ぶ歴史の幕を閉じた。
 一方,県北でも昭和32年(1957)ごろから,津山市,久米郡,真庭郡などでブロイラー産業が盛んになって,34年(1959)には月産1万羽程度の生産となった。このころは,前述の県養鶏加工連に生鳥出荷を行なっていたが,輸送中の事故が多く,生産者の損失が大きかったので,翌35年(1960)5月に,福田竹四郎,石原篁,日原農夫也などが中心となって,生産者54名をもって,津山市に岡山県北部ブロイラー協同組合(北部ブロイラーと通称)を設立し,処理場を設置した。これが,県北におけるブロイラー産業発展に大きく貢献している。北部ブロイラーは,はじめ大洋漁業と屠体取引きを開始した。不幸にして翌36年(1961)に価格が大暴落し,代金決済が行なわれないなどのトラブルを生じた。これは,当時,県南の生産者にも大きな影響を与えた。
 昭和50年(1975)におけるブロイラーの流通体系図は,図4−2−5のとおりである。

 最近における食鶏処理場の規模は表4−2−44のとおり大型化の傾向を示している。

(4)経営の安定

 昭和34年(1959)ごろまでは,鶏肉の需要が季節的にかたより,例年4月から7月にかけて価格が低落していた。そのためブロイラー飼育農家の経営も不安定であったが,同年県養鶏加工連が設立されたのを契機として,翌35年(1960)県経済連と県養鶏加工連では,県下のブロイラーの計画生産を推進するため,全国で初めて底値保証制度を実施した。この制度は,全国農業協同組合連合会(全農)を経て,主として京阪神地方の取扱業者と大口消費者と間で,底値を保証した年間販売契約を締結し,これにより安定的に出荷しようとするものであった。一方,集荷を行なう県経済連は,単位農業協同組合を通じて,生産者との間に年間飼育契約を結び,雛の確保を図った。当初の契約内容は次のとおりであった。

   第4条,甲(県経済連)が販売する生鶏は,甲の定める委託販売取扱要領によるものの外,受渡し場所は乙(県養鶏加工連)の庭先渡しとし,着荷数量をもって時価により精算し,甲及び乙は下記規格により生産者に年間平均価格を保証する。
 (1)飼育成長期間90日以内を原則として生鶏1羽当たり1.5キログラム以上のもの,キログラム当たり186円。
 (2)飼育成長期間70日以内を原則として1.1キログラムのもの,キログラム当たり173円。
  上記規格以外のものについても必要に応じて価格保証をすることもある。

 さらに,契約期間中に火災または伝染病により死亡事故が発生した場合には,「ブロイラー飼育災害事故補填積立」も実施していた。
 昭和43年度には「ブロイラー飼育・経営安定共助制度」が設けられ,県養鶏加工連に出荷したブロイラーが,補填基準価格(キログラム当たり175円)を下回った場合には,その差額を補填することとし,県経済連と生産者を含めた3者が,それぞれ1キログラム当たり1円,合計3円を拠出した。
 さらに,昭和45年(1970)に至り,「全国ブロイラー価格安定基金」が設立され,県経済連もこれに加入して,190万円を出資した。県下では8単位農協と,31戸の農家が,当初これと契約を結んだ。これに伴って,前述の県単独の制度は発展的に解消した。この他,県下には,飼料配合メーカー等を中心としたブロイラー価格補償制度に加入して,安定的な経営を行なっている農家も多く,これには,昭和50年(1975)に設立された岡山県配合飼料価格安定基金が力となっているところも大きい。
 昭和41年(1966)3月,第1回岡山県ブロイラー共励会が岡山市で開催された。出品点数は54点(3羽を1セットとして1点とする)で,入賞者は,農林大臣賞が県養鶏加工連,岡山県知事賞が久米南町中島昭洋であった。この共励会は,その後,毎年2〜3月ごろに1回,岡山市か津山市で開催されていて,第11回は昭和54年(1979)3月,津山市で,出品点数75点(2羽1セット)をもって開催された。年次別の入賞者は表4−2−45のとおりであった。