既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第7章 家畜衛生

第1節 家畜保健衛生対策

1.家畜防疫の変遷

 わが国における家畜防疫の変遷は,各時代における畜産事情と,流行した伝染病に対処して,種々の防疫措置が行なわれ,現在の進展をみているわけである。岡山県の家畜防疫の歴史も,全国的な動きの中の1つとして推移している。また,これらは世界の家畜防疫動向とも密接な関連をもっていることは,当然のことである。このようなことで,記述は,明治,大正,昭和前期同戦後期に分けて,全国的な動向と絡めて,県内事情の要点について述べることとし,必要に応じて世界的動向も付記して分かりやすくすることに努めた。なお,家畜防疫制度の変遷と衛生技術の進歩については一貫的な動きの中でとらえた方が整理しやすいので,時代的に分けないで,その経過を記述することにした。

  (1)明治年代の家畜防疫の概要

 記録に乏しいので推測の域を出ないが,江戸時代においても各地に狂犬病の流行があり,さらに,内羅,扁次黄,たち病,かさ病などの名のもとに,腺疫,炭疸,気腫疸,仮性皮疸などの発生がみられたようである。牛疫についても,元和元年(1615)以来,対馬,壱岐などに侵入の記録が散見される。しかし,まだ畜産は低調な時代であり,知識技術も幼稚であったため,これら家畜伝染病の予防治療は,一部を除き防疫の手段もなく,伝染病を一種の天罰なりと迷信し,ひたすら祈祷加護にすがっていたのが実情のようである。
 明治維新以後は,西欧文化の相次ぐ輸入によって,わが国の畜産も著しい発達を見たことは衆知のとおりである。すなわち,優良種畜を盛んに輸入することによって,在来種の改良増殖が推進されたのであるが,これに付随して恐るべき伝染病の侵入があったことはいうまでもない。また,日清戦争(明治27,8年),日露戦争(明治37,8)を経て,戦勝の結果得た台湾,澎湖列島,遼東半島(のち三国干渉により清国へ返還),南樺太の領土と,南満州におけるロシア権益の接収,さらには,明治43年(1910)の日韓合併により,新しい領土内の防疫と,これらと内地との交流による家畜防疫事情の複雑化とにより,伝染病の発生のおそれが多くなり,現実に多大の被害が繰り返されている。
 まず,日本家畜防疫史に残る大事件として,牛役が明治6年(1873)突如として朝鮮から侵入し,7〜8月ごろから京都,大阪,兵庫など近畿地方など20県下に発生して,同年末までに42,297頭の畜牛が死亡し,その惨害は目を覆うものがあった。この牛疫は,明治10年(1877)までくすぶり,初発以来約5万頭の牛が死亡した。当時の牛1頭が20円の単価として,約100万円の直接被害を被ったのである。
 このため,家畜伝染病の予防制圧は,到底家畜飼養者個々の力ではなすすべもなく,国家的な措置が必要であることが強く認識され,欧州各国に加速度的に家畜伝染病予防法の制定を促し,18世紀に入り,相前後して予防条例の発布を見るに至った。わが国においても,これらの背景から牛疫侵入の危険性を察知して,明治4年(1871)に太政官布告第276号をもって「牛疫予防に関する件」が公布され,取りあえず一連の防疫措置が取られている。これが現在の家畜伝染病予防法の初まりで,その後,逐次整備されて今日に及んでいる。
 牛疫は,明治25年(1892)10月にも再び朝鮮から侵入し,2回目の大流行を来した。これは明治43年(1910)まで続いた。明治25年(1892)からこの年までの19年間に,死亡または撲殺した牛の頭数は,30,758頭に達し,牛疫予防費としての国庫支出額は,1,416,927円の巨費に達した。岡山県内でも,明治25年(1892),28年(1895),30年(1897),37年(1904)および41年(1908)に発生した記録がある。
 ついで,流行性鵞口瘡(口蹄疫)が明治32年(1899)に茨城県下に流行し,翌33年(1900)には東京,京都など2府5県にまん延し,明治35年(1902)に終息するまで,病牛2,953頭の発生記録がある。その他の家畜伝染病の発生動向は,炭疸,仮性皮疸,鼻疸,気腫疸,狂犬病,豚コレラ,豚疫,豚丹毒等が,別表に見られるように常時継続的に発生しており,防疫体制のまだ不備の時代であったので,多大の被害を被っていたものと推察される。

 以上は,江戸時代を含め,明治年代における家畜防疫事情についての全国的な概説であるが,岡山県下の明治後期における家畜伝染病の発生状況は,表7−1−2に示すとおりであった。これによると,牛疫については,前述のように一部の侵入が見られた外,流行性鵞口瘡(口蹄疫)が明治41年(1908)に3頭発生しており,常在的なものとしては,気腫疸,炭疸の継続的発生がみられ,豚羅斯(豚丹毒),狂犬病も部分的に発生している。又,明治35年(1902)畜牛結核予防法(法律第35号)の施行に伴い,結核病が同年以降毎年摘発されていて,家畜防疫の進展がうかがえる。

   1 海外悪性伝染病(牛疫,口蹄疫)の発生状況

 (1)牛疫

 海外悪性伝染病の中でも最も脅威的な牛疫は,江戸時代においても元和元年(1615)に対馬,寛永2年(1625)に長門大津郡向津具村(現油谷町),寛文12年(1672)に西国33ヵ所,延宝元年(1673)に壱岐,貞享元年(1684)に佐賀領の筑前,筑後地方,元文2年(1737)には壱岐に,それぞれ発生したという記録があるが,当時は鎖国時代であり,密輸などのルートで島づたいに侵入したものであろう。しかし,世界的には牛疫は,17世紀に初発しているので,17世紀以前のものについては,果たして真性のものかどうか疑問が残る。
 明治年代に入り,前述のように明治6〜7年(1883−84)に第1回の大流行があり,ついで,明治25〜43年(1892−1910)に2回目の流行に見舞われ,両者を合計すると8万余頭の畜牛が,死亡または撲殺されていて,その猛威のほどがうかがえる。このように明治年代における家畜防疫の最たるものは牛疫の制圧で,国をあげてこの対策に腐心し,今日の家畜防疫の基礎が築かれたのである。明治後期における牛疫の流行については,岡山県内の発生が絡むので,参考のため農林省獣疫調査所(昭和10年)の『日本帝国家畜伝染病予防史(明治篇)』により牛疫伝播の系統図及び発生状況の表を引用した。(表7−1−3および図7−1−1参照)

 当時の牛疫など悪性伝染病の侵入は,いずれも朝鮮半島及び支那大陸からの畜牛の輸入に絡むものであり,この侵入ルートに対する検疫を強化しない限り,悪疫の撲滅は不可能であった。そこで,明治25年(1892)の牛疫侵入を契機として,明治29年(1896)3月に,「獣疫予防法」が公布され,検疫と輸入規制が法文化された。ついで明治30年(1897)9月に牛疫検疫規則,明治39年(1906)4月に獣疫検疫規則が制定されるに及んで,検疫措置が一段と強化された。さらに,明治43年(1910)の日韓合併によって,釜山港その他の検疫施設が充実し,大正4年(1915)4月には朝鮮獣疫予防令が公布されるなど,一連の予防対策が奏功して,大正12年(1923)以降その発生は跡を絶つに至った。

 (2)流行性鵞口瘡(口蹄疫)

 本病については,明治34〜38年(1901−05)年平均233頭,同41年(1908)に579頭の発生記録がある。岡山県下においても,41年(1908)に3頭の被害が出ている。この年の発生は,鳥取,島根,岡山,広島,山口,京都,大阪,滋賀,東京,北海道に及んでいるが,口蹄疫にしては罹病頭数が僅少で,東京府以外の発生は,単なる流行性口内炎ではなかったかとも推測されている。

   2 その他の家畜伝染病の発生状況

 全国的に見ると,炭疸,皮疸,鼻疸,気腫疸,狂犬病,豚羅斯などが継発しており,軍馬重視の背景から皮・鼻疸の発生が目立っている。又,畜牛結核予防法(法律第35号)が明治36年(1903)に施行されたのに伴い,結核病の摘発が注目されたのである。

 (1)気腫疸

 気腫疸は,古来から中国,九州,近畿地方及び青森県に土壤病として常在し,岡山県においても毎年20〜50頭の被害が県北山間部の放牧場を中心に出ており,種々予防対策が試みられたようである。その一例として,明治32年(1899)11月に,県単独で気腫疸予防液接種試験が苫田郡奥津村(現奥津町)で行われている。供試牛は,県費購入の犢牛8頭と民間希望牛6頭で,予防液は,本病毒を摂氏80度に熱処理したものと,同じく100度に処理したものであった。これを右肩胛部皮下に応用したが,これは,わが国における獣疫予防接種を実地応用した最初の壮挙であり特筆すべきことであった。その後,明治45年(1912)7月,東京帝国大学助教授仁田直獣医学博士の派遣をこい,同氏の開発した予防液による国内最初の実地応用が,阿哲郡千屋村大字井原および花見(現新見市)において,166頭に実施された。この予防液は,安全かつ免疫力がすぐれているので,以後これにより予防接種が励行されて現在に至り,本病の防圧に貢献している。

 (2)炭疸

 炭疸は,広く国内に常在し,特に九州,中国,大阪地方及び利根川流域には古くから発生があったようである。県内においても毎年数頭から20頭前後の発生がみられる。炭疸の免疫血清は,明治33年(1900)に福岡県で実地に応用され,予防液は,明治38年(1905)に大分県で応用されたのが最初である。

 (3)狂犬病,豚羅斯(豚丹毒)

 両病についても明治年代にかなりの国内発生が見られた。狂犬病は明治33〜34年(1900−01)に,豚羅斯は同じく33年(1900)ごろから多発している。県内でも豚羅斯が明治42年(1909)に10頭,狂犬病は明治45年(1912)に26頭が発生している。

 (4)結核病

 酪農の進展に伴い,人畜共通疾病である牛の結核病の被害が憂慮される事態となったので,畜牛結核予防法(法律第35号)が,明治34年(1901)に公布され,36年(1903)に施行され,同年以降専任検査員による検査が実施されている。当時はツベルクリン(皮下注射熱反応法)によるものと健康検査のみによるものの2本建てで,対象牛は乳用牛だけでなく,一般牛についても実施している。幸い,県内の畜牛結核検査結果については,明治36年(1903)以降,毎年の記録が残っているので表7−1−4に掲載した。結核病の摘発頭数は,重症牛と軽症牛の計について記載してあるが,検査開始当初には55〜56頭とかなり多く摘発されていたものが,以後は急激に減少して10頭内外にとどまっている。

 なお,当時の記録の中で代表的な復命書を参考のために掲載すれば図7−1−2のとおりである。