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中世以前の牛の飼養目的には,農耕,採肥のほか,一部支配階層においては,牛車(ぎっしゃ),乳利用などがあった。近世になると,一般農民による農耕,駄載が普及し,農外利用として車運搬が盛んとなり,また,商品としての牛の取引きが盛んになるにつれて,体格の向上をめざして「国牛十図」による相牛を中心とした選択淘汰が行われるようになった。
わが国の三名蔓の一つとして,日本最古の竹の谷蔓牛は,天保初年(1830)阿哲郡新郷(にいざと)村(現神郷町)浪花千代平の生産した優良牝牛が基になって造成されたものである。その分れ蔓は,郡内は勿論,伯耆国など県外にも及んでいる。