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〔シリーズ〕モンゴル・つれづれの記(3)

−弓射競技−

三秋 尚

 首都ウランバートルでは毎年7月11日の革命記念日に国家規模の祭典「ナーダム」が開かれ,地方でも同様に行われる。ナーダムのイベントは競馬,相撲,弓射である。
 その弓射競技を初めて見たのは20年ほど前の1981年7月12日,ナーダムの2日目であった。首都を貫流するトーラ川沿いにあるスタジアム内の弓の競技場につくと,まず耳に入ったのは,矢が命中したときに審判が両手を高く上げながら発する声色(こわね)であり,そして間髪を容れず沸き上がる歓声であった。私は観客の興奮に包まれて観戦することにした。
 それから7年後,再び弓射競技場に立ち,13世紀ユーラシア大陸を席巻したモンゴル遊牧騎馬軍団の弓射る兵士たちの勇姿を想像しながら,競技者に惜しみない声援を送ったのである。それ以来弓射競技を観る機会はないが,耳を澄ませば,大歓声の響きが,群青の空の下,緑深き大草原の彼方から聞こえてくる。
 モンゴルの弓射競技の起源は戦闘的スポーツ競技と密接な関連があり,その競技が始まった時期を知る最も古い記録は,有名な「イスンゲ紀功碑」(チンギス・ハーン碑石とも呼ばれ,1225年に建てられた)に残されている。この石に刻まれたモンゴル文は1224年にチンギス・ハーンがホラムズ(中心地はサマルカンド)遠征の帰りに中央アジアで宿営し,遠矢(とおや)大会を催したとき,チンギス・ハーンの甥にあたるイスンゲが優勝したことを伝えている(松川 節『モンゴル歴史紀行』)。
 1206年,モンゴル高原においてモンゴル部族を統一し,王位についたチンギス・ハーンは,世界征服に乗り出した。1209年から約6年間は東方(中国)への遠征であり,1219年から約6年間は西方(中央アジア)への征服の旅であった。こうした征服事業において,モンゴル軍は1215年に金王朝(満洲出自の女真人)の中都を落とし,1220年にはホラズム王国のブラハ,サマルカンドを攻略した後,チンギス・ハーンはモンゴル高原の宮廷へ帰還し,その2年後の1227年に死去した。
 1230年にチンギス・ハーンの3男オゴディ・ハーンが即位し,1235年にモンゴル3大河川の1つオルホン川のほとりカラコルムに新首都を建造し,この新都宮殿で1236年からの東欧遠征が決議された。モンゴル軍はロシア平原を蹂躙し,1240年12月にポーランド侵略,翌1241年3月にはハンガリー侵入を開始し,同年4月にはリーグニッツの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を破った。しかし,この年12月,オゴディ・ハーンの死去により,モンゴル軍は東欧から撤退した。
 1253年,モンケ・ハーン(チンギス・ハーンの4男トルイの息子)は西アジア遠征を開始し,1257年には中国南部の南宋へ遠征軍を送り,翌1258年にバグダードを占領した。モンケ・ハーンはしかし,1959年遠征中に死去し,1960年3月にフビライ・ハーン(モンケの弟)が即位したのである。
 上述したようにチンギス・ハーン治世の1210年から第5代フビライ・ハーン即位の1260年までの半世紀に,ユーラシア大陸に空前絶後のモンゴル帝国は出現したのである。このようなモンゴル帝国の世界征服事業において,モンゴル軍は部分的には敗北を喫した例はあるが,戦略的齟齬をきたすほどの敗戦を一度も経験していないのである。
 中国北東部の金帝国軍も西方のトルコ系ホラズム軍やロシア・ウクライナの諸侯もモンゴル軍の前には抗し得なかったのである。当時のモンゴル軍は決して数が多かったわけではない。ホラズム遠征のときモンゴル軍総数は最大限20万人,一説によれば9万5000人にすぎなかったといわれ,これに対してホラムズ王国は40万人以上を動員し,また,金帝国の軍隊は100万を超えていたのである(NHK大モンゴル(1))。
 モンゴルの少数軍勢が連勝できた理由の1つとして挙げられるのは,モンゴル人の騎馬と騎射の技術である。モンゴル馬は小型で不格好だが,左右の足を前後揃えて出す走り方(側対歩)を訓練され,馬上の安定性がよく,しかも馬鞍の特殊な構造から騎乗者は立ち上がったように乗り,弓の命中率が高かったのである。
 前述のイスンゲ紀功碑は,ロシアのエルミタージュ博物館に保存されており,その石文に,射手イスンゲは335尋の彼方に矢を射たと讃えている。今日の単位で言う500mを越える距離であり,もしそうだとすると小銃なみに強さと精度を持っていることになる。
 既述したポーランドのリーグニッツは,ヨーロッパ最強の騎士軍団がモンゴル軍を迎え討った古戦場である。しかし,ポーランド・ドイツ連合軍は,モンゴルの弓矢の嵐の前になす術みなく壊滅したのである(NHK大モンゴル(1))。英国の長弓の射程距離が230mであるに対し,動物の腱と木で作られたモンゴルの弓はさらに遠くまで矢を飛ばすことができ,戦場においてモンゴルの騎馬弓兵は,敵に衝撃を与える長い距離で攻撃を開始したのである(ティム・セヴェリン著,松田忠徳訳『チンギス・ハーンの軌跡』)。
 現在,ナーダムで行われる弓射の競技は,いずれも的を射るもので,チンギス・ハーン時代のような遠矢大会は催されていない。しかしモンゴルの伝統的弓射は,日本の和弓や外国のアーチェリーと異なる独特の競技である。
 その競技については,モンゴル政府が革命50周年に当たる1971年に発行した『伝統的競技』に記述され,近年では1991年に首都ウランバートルで出版された『モンゴル案内』にも掲載されている。わが国ではダイアモンド・ビッグ社発行の『地球の歩き方・モンゴル』(2001年改訂版)に記載され,そのほか数々の著者の紀行文に記されている。これらの資料では競技の仕方に多少の違いがみられるものの基本型は同じである。ここでは主に上述した1971年の資料に基づいて,競技の模様を紹介する。
 弓射競技は国民的スポーツで老若男女が参加できる。1988年に訪モしたとき,中年のおばさん風の女性が,足元にひょいとハンドバックを置いたままで,弓に矢をつがえている姿を見た。弓射はまさに大衆の中に溶け込み,世代を超えて受け継がる伝統的競技である。
 弓射競技は8〜12人位の団体戦と個人戦があり,男子は75m,女子は60m離れた標的をねらう。その標的は革紐を編んで作った,直径,高さともに8p位の円筒状で,色彩豊かなものである。この標的を壁状または垣状に積み重ねるが,壁状標的は幅4m,高さ40〜50pの壁を360個積んで作る。これを目標に男子は40本,女子は20本の矢を放つ。垣状標的は30個の標的を中央が2段ずつ24個,その両脇に1段ずつ3個並べて,男子だけが参加し,20本の矢を射る。いずれの場合も競技者は1回に4本の矢を持ち,横一列に並び,順番に1本ずつ放ち,標的に命中した数を競うのである。
 なお,8〜17歳までの子供は,男子は年齢に4m,女子は年齢に3mを掛けて距離である(『地球の歩き方』)。
 上記した壁状あるいは垣状の標的の手前に審判とその助手が立ち,彼らは飛んでくる矢を巧みに避けながら,矢が標的に命中すると,両手を挙げ,のどをふるわせ,独特の調子をつけながら,「オーハイ」(うまいぞの意)と歌うようにくり返す。
 モンゴルの伝統的な弓は主にウリヤス(ヤナギ科落葉喬木)を芯にして,牛や鹿の角片をニカワで張り付け,強度を増した合板短弓である。考古学的遺物によれば,長さは120〜160p余りで,騎上で操るのに適したものであった。矢はヤナギやシラカバの木で作られ,太さ12〜16o,長さは1m余りで,矢じりには骨,石,鉄などが用いられていた(NHK大モンゴル(2))。
 現代の弓は,その本体には,竹板と野生の山羊の角を板にしたものを張り合わせ,両先端にシラカバの木を加工して使う。鹿の腱を乾燥して糸状にしたものを更に張り合わせた上にニカワではる。これは弓の強度を強めるためである。弓の型ができたところでシラカバの皮を張るが,弓の水分を保ち,防水にもなる。完成するまでに1年を要する(NHK大モンゴル(4))。弓の長さは120〜170p,矢の長さは1mで,矢にはタカやトビの羽が3本ついているが,やや非対象であるため,矢はライフル銃の弾のようにラセン回転をしながら飛ぶ。矢じりはオオシカの角の付け根の部分を使い,弓の弦は鹿の1種アンテロープの首の皮で作られ,非常に丈夫である。
 競技場では,弓が飛んでいる間,長い列をなした観衆が歓声を上げる。これは矢が標的に命中すれば「当たり~~」と讃え,高すぎたり,たり低すぎた場合は「惜しいぞ~~」と励すのでである。弓射競技の勝者が受ける最高の称号は「メルゲン」と呼ばれる。この言葉には賢い,洞察力のある,よく的中するなどの意味があり,弓だけでなく,何ごとにも的をはずさぬ判断力を示すことのできる人についても用いらている。
 モンゴル草原は,北アジア高緯度帯にあり,短い夏と厳寒の長い冬をもつ遊牧世界である。四季の移ろいに合わせて牧地を循環する牧畜民は,伝統の磨き抜かれた暮らしの術で大自然の恵みを精一杯引き出し,さまざまな天災を受入れ,倹しく暮らしている。彼らの日々の牧畜労働は厳しく,一家をあげての娯楽行事は大変少ない。遊牧の生産と生活は単純性の循環であり,進歩の速度は緩慢である。それゆえに彼らにとってナーダムの日々は,とりわけ7月のナーダムは伝統的な通過儀礼的なお祭りとは言えないのである。
 遊牧を支える草原の7月は実りのクライマクスであり,7月から8月への季節は夏と秋の交代の季節である。彼らは草原の豊凶を見定めながら,豊饒の時は喜悦を不作の時には悲哀を心底に秘めて,ナーダムに興じながら,1年の循環の先に希望の光を願い,祈るのである。


写真1 婦人たちの弓射競技
射手は男女を問わず民族衣装のデールを身につける。普通4人並んで,
写真手前の射手から順番に矢を射る。1981年7月,首都の競技場にて。


写真2 弓射の標的
標的は直径,高さとも8pほどのソルを垣状(写真)および壁状に積み上げて作る。勝敗は命中したソルの数で決まる。